作品制作における設定
須々木です。
先日のミーティングは、RWが目下取り組んでいるとあるプロジェクト(近日中に遊木がしっかり告知するものと思われる)に関連するものでした。
ちょっと特殊なタイプで、個々が考えた設定が互いに無関係ではないので、その情報のつき合わせなどをしていたわけですが、見ているといろいろ興味深いなあと思うところがあったりします。
そんな、「設定」についての話です。
※「プロット」ではない。
今回、媒体に差はあっても、とりあえずみんなシナリオの存在する作品を制作しているので、それに関する設定をまとめて来てもらいました。
それを見て感じたこととして、とりあえず言えるのは、「そもそも設定というものが作品制作(フィクション)においてどの程度を占めるのかという感覚の個人差が大きい」というもの。
設定に関しては、一般的に「設定を考えるのがそもそも好き」「設定はとても大事だと思うので可能な限り細かくつくる」「設定ばかりこねても予定調和で無難になるだけ」「設定なんてなくてもつくれる」などいろいろな立場があると思います。
僕は、基本的に「設定は可能な限り細かくつくるべき」のタイプです(作品のジャンルにもよりますが)。
もちろん、考えること自体好きというのもありますが、設定をつくらないより、設定を作った方が制作できるものの幅が広がるというのが一番の理由です。
設定をつくらないで、そのままスルスルスルっと自分の中から出てくるものは、ストレスなくとてもスムーズに描けるものだと思うのですが、ただの一人の人間が自然にひねり出せる世界やキャラやストーリーなんて、たかが知れています。
よって、設定をつくらず書けば、いつも、その狭い幅の中におさまる作品にしかならないように思います。
それは、簡単に言えば「ただの日記」です。
自分の中にあるものだけを使って作られた作品は、自分の脳内で日々繰り広げられている出来事をもとに組み直したにすぎません。
新しい要素が組み込まれることはなく、その点で、日々の出来事をつらつら書き連ねた日記とほぼ同じです。
余程の天才でない限り、このやり方では作品の幅は足りないし、さらに良くないのは、自分が現時点で身につけている範囲を逸脱しないため、結局制作を通して新たに学ぶことが少なくなります。
自分の中にもとからあるイメージを越えた世界、キャラ、ストーリーを生み出す能力は、なかなか身につかないように思います。
その点で、作品を作るうえで設定を考えないというのは、単純に、自分が成長する機会を丸ごと放棄しているに等しいと思います。
設定なしに優れた作品を作れる人は、本当に才能の豊かな人だと思います。
設定なしに優れた作品を作れると思っている人は、自分の中にそれだけの優れた才能やネタが貯蓄されていると感じている人です。
でも、僕は自分に対してそうは思わないので、設定をつくります。
自分が過去に刺激を受けた作品も、表面的に描かれる部分と水面下の見えない部分を比較すれば、後者が圧倒的な質量を持っています。
もちろん、目に見えるのは、表面の一部分にすぎませんが、それは水面下で支える部分があってこそのものです。
やっぱり、ここのところが十分でないと、見事に説得力がなくなっていってしまいます。
つくっている側は、つくっている側の勝手な前提があるので違和感がないのかもしれませんが、自分のためにつくっているわけではない作品がこれじゃマズいのは明らかです(その前提は誰もが共有しているわけではない)。
説得力がなければ感情移入も何もあったもんじゃありません。
もれなく駄作認定です。
賛否両論という段階ですらありません。
そもそも関心を向けてもらえない作品(賛否を語る価値もない作品)となってしまいます。
というわけで、まとまりなく書きましたが、改めて「設定は大事だなあ」と感じましたよ、というお話でした。
もちろんそれだけじゃないけれど。。
以上、備忘録として。
sho
先日のミーティングは、RWが目下取り組んでいるとあるプロジェクト(近日中に遊木がしっかり告知するものと思われる)に関連するものでした。
ちょっと特殊なタイプで、個々が考えた設定が互いに無関係ではないので、その情報のつき合わせなどをしていたわけですが、見ているといろいろ興味深いなあと思うところがあったりします。
そんな、「設定」についての話です。
※「プロット」ではない。
今回、媒体に差はあっても、とりあえずみんなシナリオの存在する作品を制作しているので、それに関する設定をまとめて来てもらいました。
それを見て感じたこととして、とりあえず言えるのは、「そもそも設定というものが作品制作(フィクション)においてどの程度を占めるのかという感覚の個人差が大きい」というもの。
設定に関しては、一般的に「設定を考えるのがそもそも好き」「設定はとても大事だと思うので可能な限り細かくつくる」「設定ばかりこねても予定調和で無難になるだけ」「設定なんてなくてもつくれる」などいろいろな立場があると思います。
僕は、基本的に「設定は可能な限り細かくつくるべき」のタイプです(作品のジャンルにもよりますが)。
もちろん、考えること自体好きというのもありますが、設定をつくらないより、設定を作った方が制作できるものの幅が広がるというのが一番の理由です。
設定をつくらないで、そのままスルスルスルっと自分の中から出てくるものは、ストレスなくとてもスムーズに描けるものだと思うのですが、ただの一人の人間が自然にひねり出せる世界やキャラやストーリーなんて、たかが知れています。
よって、設定をつくらず書けば、いつも、その狭い幅の中におさまる作品にしかならないように思います。
それは、簡単に言えば「ただの日記」です。
自分の中にあるものだけを使って作られた作品は、自分の脳内で日々繰り広げられている出来事をもとに組み直したにすぎません。
新しい要素が組み込まれることはなく、その点で、日々の出来事をつらつら書き連ねた日記とほぼ同じです。
余程の天才でない限り、このやり方では作品の幅は足りないし、さらに良くないのは、自分が現時点で身につけている範囲を逸脱しないため、結局制作を通して新たに学ぶことが少なくなります。
自分の中にもとからあるイメージを越えた世界、キャラ、ストーリーを生み出す能力は、なかなか身につかないように思います。
その点で、作品を作るうえで設定を考えないというのは、単純に、自分が成長する機会を丸ごと放棄しているに等しいと思います。
設定なしに優れた作品を作れる人は、本当に才能の豊かな人だと思います。
設定なしに優れた作品を作れると思っている人は、自分の中にそれだけの優れた才能やネタが貯蓄されていると感じている人です。
でも、僕は自分に対してそうは思わないので、設定をつくります。
自分が過去に刺激を受けた作品も、表面的に描かれる部分と水面下の見えない部分を比較すれば、後者が圧倒的な質量を持っています。
もちろん、目に見えるのは、表面の一部分にすぎませんが、それは水面下で支える部分があってこそのものです。
やっぱり、ここのところが十分でないと、見事に説得力がなくなっていってしまいます。
つくっている側は、つくっている側の勝手な前提があるので違和感がないのかもしれませんが、自分のためにつくっているわけではない作品がこれじゃマズいのは明らかです(その前提は誰もが共有しているわけではない)。
説得力がなければ感情移入も何もあったもんじゃありません。
もれなく駄作認定です。
賛否両論という段階ですらありません。
そもそも関心を向けてもらえない作品(賛否を語る価値もない作品)となってしまいます。
というわけで、まとまりなく書きましたが、改めて「設定は大事だなあ」と感じましたよ、というお話でした。
もちろんそれだけじゃないけれど。。
以上、備忘録として。
sho