映画「GODZILLA」を観て感じたこと。 | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

映画「GODZILLA」を観て感じたこと。

須々木です。

先日見た映画「GODZILLA」(ギャレス・エドワーズ監督作品)について、つらつら書き記しておこうと思います。



さて、本作について語る前に、まずは「ゴジラ」についてざっくりと整理を。

さすがに「ゴジラ」の名を知らない日本人はいないと思いますが、東宝の特撮映画の怪獣の名前であり、シリーズの名前です。

終戦(すなわち原爆投下)よりおよそ10年を経た1954年に、第1作「ゴジラ」が公開されたわけですが、核に対する非常に強いメッセージ性を持った一連の作品群は、特撮怪獣映画というジャンルを確固たるものとし、その後続いていきました。


通称「昭和ゴジラシリーズ」と言われるのが、第1作から第15作(1975年)まで。

続いて、「平成ゴジラシリーズ」と言われる第16作(1984年)から第22作(1995年)、「ミレニアムシリーズ」と言われる第23作(1999年)から第28作(2004年)があり、その後はありません。

僕自身、「昭和ゴジラシリーズ」のほぼ全作品と「平成ゴジラシリーズ」全作品は見ているのですが(「ミレニアム」は見ていない)、特に「平成」の印象は強く、わりと強い影響を受けているように思います。


世界的な知名度をもつ「GODZILLA」は、1998年と2014年(今回)の2度に渡りアメリカ版が制作されました。

1998年版は、「インディペンデンス・デイ」などで知られるローランド・エメリッヒ監督によるものですが・・・

まあ、これを「ゴジラ」と呼んで良いのか・・・

見たことのある人は分かる通り、あらゆる点で本家のゴジラとは似ても似つかない生き物が登場するわけですが、当然、ゴジラファンからの批難の嵐が巻き起こりました。

ちなみに、個人的には、パニック映画として十分面白い作品だったと思います。

もちろん、「インディペンデンス・デイ」より面白いとは言いませんが、普通に人にすすめられるくらいなのではないかと。



そして、今回の「GODZILLA」ですが、これは1998年版とはまったく別で、日本版のリブートみたいな扱いのようです。

ゴジラの外見的特徴も東宝版をほぼ踏襲し、日本人の知ってるゴジラがばっちり現れてくれます。

正直、これだけで結構アツい。

世界的なヒットを見る限り、一定の評価は得られているようで、往年のゴジラファンとしては嬉しい限りです。




さて、劇場で見た率直な感想ですが・・・

「まあ、良かった」

って感じでしょうか。。



良かったとは思うんです。

思うんですけど、手放しで「素晴らしかった!」とは言えない。

個人的には、なんとももどかしい気持ちが残ったりします。

ただ一方で、監督の「ゴジラ愛」は感じました。

かなり溢れていました。







※以下、本編の内容に触れます。ネタバレ注意!!







では、中身についても個人的見解を書いていきましょう。

なお、あくまで個人的見解・解釈なのであしからず。




まず、ゴジラシリーズで常に重要な問題が、「ゴジラ」をどう描くか? というところです。

日本版でも、人類にとって敵っぽいときもあれば味方っぽいときもあって、実は一貫性がありません。

ただ、結局総合すると、ゴジラは、人類にとって味方でも敵でもない。

というか、ゴジラにとって人類とかどうでもいい。

敢えて言うなら、「ゴジラはゴジラ」としか言いようがないと思うんです。


ただ、本作でのゴジラは、明らかに「神」です。

英語のスペル「GODZILLA」の“GOD”のイメージが強いのか、監督の「ゴジラ愛」が強すぎるのか、もしくはアメリカの思想の傾向によるものなのかはわかりませんが、「神」として描かれたゴジラは、正直なところ疑問符でした。


「ゴジラはゴジラという唯一無二のキャラクター性をもつ(「神」というキャラクターではない)」という部分を描けなかったことは、かなりの痛手のように感じました。

それでも、ただのモンスターではなく、ゴジラを描き出そうという試み自体は随所に感じられたので、一人のゴジラファンとしては評価したいところです。

しかし、それでも「アメリカ的なヒーローモノ」の色が濃くなってしまうのは、アメリカ映画の根本的な傾向なのでしょうか。


多少の偏見が入っているかもしれませんが、アメリカというのは、多くのものを単純化する傾向があるように思えます(良い意味でも悪い意味でも)。

単純な二律背反に帰結し、中間の曖昧さは排除されることが極めて多い。

映画であれば、「ヒーローと敵」という構造です。


ただ、ゴジラというのは、元来、非常に強い曖昧さをもっている存在です。

核に警鐘を鳴らす存在でありながら、放射火炎を吐き出し都市に壊滅的なダメージを与える。

にもかかわらず、人類を窮地から救ってみたりする。

そして、それに対し人類は、畏敬の念と親しみを同時に抱いたりする。

単純化するにはあまりに不向きな存在です。

この日本的とも言える曖昧さが、ゴジラをゴジラたらしめるのに大きく影響している。

ただ、同時に、これはアメリカがあまり得意ではない部分なのかなとも思います。


※個人的には、この感覚の違いは、一神教と多神教の文化圏の違いのような気もする。一神教は、やはり二項対立で世界を説明しようとする傾向が強くなるが、多神教は複雑すぎて曖昧な部分を認めざるをえなくなる。



つまり、ゴジラを「神」として描くのが個人的には釈然としなかったということです。


「GODZILLA」じゃなくて、「GOJIRA」だと思うんですよ、本当は。

※「GODZILLA」のスペルは東宝によるものだが。


ゴジラに対する大きなリスペクトを感じるものの、その方向はややずれているという印象でした。

これは、「ラストサムライ」で「サムライ」に対するリスペクトは感じるものの、「これはサムライとはちょっと違うでしょ?」と感じるアレに近い感覚です。

好きなのは分かるし、リスペクトもわかる。

だけど、肝心な所が抜けている。


その点では、一定の質をもった二次創作のような感じだったのかもしれません。



また、個人的な嗜好の問題もありますが、シナリオも若干いただけない感じでした。

正直、序盤はかなり面白かった(ゴジラ出なかったけど)。

あまり期待せずに見に行ったので、逆に「思ったよりいいんじゃないかコレ?」と思ったりもしました。

なのに、その後、徐々にシナリオ軽視(アメリカ映画のステレオタイプ)、特殊効果偏重という感じになり、最後も普通に無難に終わってしまった感じでした。



日本のゴジラシリーズでも、シナリオの良さは作品ごとにわりとはっきり差がつきますが、「平成ゴジラシリーズ」は全般的にシナリオが良い印象(ただし「vs スペースゴジラ」を除く)で、特に「vs ビオランテ」「vs キングギドラ」「vs モスラ」は本当に良かった。

そして、改めて考えると、「人間ドラマのパートがショボいと映画自体ショボくなる」という傾向があるように思います。

つまり、「怪獣映画だけど、怪獣のバトル以外を軽んじるとすべてが崩れる」というものです(もちろん見せ場は怪獣のバトルシーンなのだが)。

その点で、今回の「GODZILLA」は、序盤の人間ドラマパートの良さが、後半でほとんどスルーされてしまった点がもったいなかったように感じます。

怪獣のバトルだけじゃない作品をつくろうとしていた気がするのに、後半は、脚本的に他の作品のコピペな感じでした。

残念!



あとは、多くのゴジラファンは感じたと思うのですが、最後のゴジラの熱線(口から出すやつ)・・・さすがにショボすぎませんでしたか??

科学考証の結果かもしれませんが、ゴジラの代名詞みたいなものですし、ド派手にやって欲しかった。。

アメリカなんだから、やりすぎってくらい派手にかまして欲しかった・・・。



ただ、いろいろ言ってはいるものの、1998年版で「ただの凄い生物(というか、大きなイグアナ)」だったGODZILLAが、今回はちゃんとに「怪獣」になっていたというのは良かったです。

大きな一歩です。




一方で、本作を通じて、ゴジラが思っていた以上に世界に知れ渡っていることを実感しました。

タイトルこそ「GODZILLA」ですが、本作の上映時間中、ゴジラにスポットを当てている時間はとても短かったのが驚きで、「タイトル変えた方が良いんじゃ?」とかちょっと思いましたが、これは逆に、「今さら説明してもくどいでしょ?」ということなのかもしれません。

何作もシリーズをやってさんざん描いた後の作品であるかのような説明省略っぷりで、ゴジラ初体験の人にはかなり不親切な映画でしたが、実際のところ世界的にヒットしているわけで、結局、みんなゴジラを知っていたのでしょう。

日本人がゴジラを知っているように、世界もゴジラを知っているというのは、今回強く感じたことです。



さて、いろいろ書き散らしてきましたが、ここで本作を総括しましょう。

今回の映画「GODZILLA」 はどういう作品なのか?


個人的には、「ゴジラ好きがゴジラに肉薄(同一化)しようと挑戦した作品」と思いました。


そしてこれは、二次創作が一次創作に挑むような、それこそ、生身の人間がゴジラに挑むような、そんな途方もない大きな戦いの産物でもあります。

故に、この戦いぶりには、素直に賛辞を送られるべきだと思いました。





sho