続編をつくれないはずの作品の続編をつくれる2010年代 ~『魔法少女まどか☆マギカ』所感~ | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

続編をつくれないはずの作品の続編をつくれる2010年代 ~『魔法少女まどか☆マギカ』所感~

須々木です。
わりと久々のブログです(今月2回目)。


いきなりですが、タイトルにもあるとおり、「魔法少女まどか☆マギカ」に関して、つらつらと書いていこうと思います。

テレビシリーズ、及び劇場版(新編)の核心的ネタバレを含むので、ご注意ください。

あと、例によって、すべて個人的見解なのでご了承ください。






   *   *   *






とりあえず作品を見て「おお!」と思ってグルグルして、それから一呼吸し、落ち着いて腰を据えて、作品を思い返してみると、いろいろ面白い事に気づいたりします。






すでに、現時点で、2010年代を代表するアニメ作品のひとつであると言っても過言ではない「まどマギ」ですが、じゃあこの作品のどこが凄いんでしょう?

オリジナリティーに溢れているから?


これはかなり微妙な気がします。

というか、「まどマギ」を構成する要素のほぼすべては、“どこかで見たもの”でしょう。




そもそも「魔法少女」自体が昔からテッパンネタであり、とりあえず「セーラームーン」を意識していることは明らかです。

特に、劇場版新編の変身シーンはその傾向が顕著でした。


・メインキャラ5人で5色(わかりやすいイメージカラー)。
・アクセサリー的なものが光って変身スタート。
・背景が切り替わって、キャラがクルクル。
・とりあえず一旦裸になる。
・必然性に乏しいいくつかのステップを経て変身が進行する。
・最後にドヤ顔で決めポーズ。
・これらが一人ずつ進行する。


アニメ版よりも尺を長く取っていた分、劇場版新編では、過去の変身モノのオマージュとしての側面を強く感じましたが、もちろんこれらの演出は基本的には既出のやり方を踏襲しています。




ループネタ・パラレルネタというのも、そろそろ新しさはありません。

遡ると、量子力学やら、エヴェレットの多世界解釈やらを引っぱり出したり、その考え方をサブカルチャーに転用した、ノベルゲームの分岐の概念やらに触れなければなりませんが・・・

ざっくり言えば、「まどマギ」は、「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビシリーズ最終話が端緒となり、「ひぐらしのなく頃に」でショッキングに広まった、これらの概念を正当に継承している感があります。

ここで言う、〈これらの概念〉と言うのは、「時系列を整理しても、単純な一本線にならないが、それでいて作品として成立する」という概念です。

ひぐらしのときは衝撃的でしたが、その後、ループネタ、パラレルネタは転用されまくったため、これだけで何か真新しさを見せつけることはできなくなりました。

※複数の並行世界を知覚している存在がいる点も、共通します。エヴァなら渚カヲル、ひぐらしなら古手梨花、そして、まどマギなら暁美ほむら。




さらに、主人公とその周囲のごく限られた人々との人間関係が、中間項を挟まず、いきなり世界の行く末を左右してしまうというストーリーライン・・・いわゆる「セカイ系」の作品としても、「まどマギ」は非常に素直に描かれています。

これも、エヴァが火付け役ですが、ひねることなく継承している感があります。





ショッキングな展開の一つでもある、「魔法少女→魔女」という点についても、本来仲間だった人が、倒すべき敵になるということでは、同系統のものがたくさんあります。

特に、「まどマギ」のように、明らかに救える見込みのない敵になってしまうというのは、ゾンビモノに近いと言えるかもしれません。

これらは、短い話数に多くの要素を詰め込む現代のアニメでは、仲間の行く末を描きつつ、敵が何者であるかを同時に描けるという点で、大幅に説明の尺を短くできる極めて理にかなったストーリーラインとして定着しています。

味方のキャラを描き、それをリサイクルして敵キャラにするわけです。

このリサイクル的手法は、遡れば、すでに王道になって久しい「今日の敵→明日の味方」という少年漫画的展開の応用と言えるかもしれません(敵、味方の順序を入れ替えただけ)。






以上で触れた4つの点。

① 魔法少女(変身モノ)
② ループネタ・パラレルネタ
③ セカイ系
④ 味方→敵


これら「まどマギ」の中でも大きなウェイトを占める要素は、いずれも、ほぼそのまんま過去作品のオマージュです(しかも、いずれも非常に使い古されている)。

その点、「まどマギ」には単純な意味で、オリジナリティーがあるわけではありません。



演出が独特であるという意見もあるかもしれませんが、これも、過去の新房作品(「さよなら絶望先生」、「物語シリーズ」等)に触れている人にとっては、「いつものやつ」です。









じゃあ、結局、これだけの反響をもって受け入れられた「まどマギ」とはなんなのか?

その本質は、「過去作品の要素による、再構築と再解釈を試みた作品」ではないでしょうか。

主として、1990年代、2000年代のアニメを中心とするサブカルチャーの要素をふんだんに盛り込んだ上で、改めて構成し直し、解釈し直した作品ではないでしょうか(一種の批評とも言える)。



思えば、今まで、変身に理由はありませんでした。

だからこそ、主人公は第1話で変身してきたわけです。


しかし、「まどマギ」で主人公が魔法少女に変身するのは、テレビ放映の最終話です。

さんざんオープニングで流れていながら、結局最後の最後まで変身しません。



つまり、「魔法少女モノ」という一つのジャンルが、いままで「魔法少女そのもの」を描いてきたのに対し、今回は「魔法少女になる過程」を描こうと試みたわけです(「魔法少女」に対する新解釈)。

だから、魔法少女になったら最終回になってしまうのです。

あくまで、“過程”を描くことが本作品の本質であるが故に。




そして、その意味において、テレビシリーズ最終話で「まどかが魔法少女になった」物語に、続編をつくることは、本来できません。

ストーリーは目的地にすでに到着してしまっています。

“その先”は、この物語の領分ではないはずです。





しかし、現実には、続編として〈[新編] 叛逆の物語〉が制作されました。

これはどういうことか?




これは結局、テレビシリーズのオマージュだと思います。

もともと過去作品のオマージュとして存在した「まどマギ」を、さらにもう一回オマージュにしてつくりあげた作品だと思います。

より簡潔に言えば、テレビシリーズが「まどかが魔法少女になる“過程”」を描いたのに対し、劇場版新編では、「ほむらが悪魔になる“過程”」を描き、それを続編と呼ぶことにしたわけです。

つまりこれは、単純な続きではなく、まさしく再構築・再解釈です。

その意味で、「まどマギ」としてのアイデンティティーは維持されていますが、従来型の「続編」の概念との間にはギャップもあります。

どちらかと言えば、二次創作的な描き方であり、まさしく2010年代的な手法です。

※過去の他作品を批評的に再利用したテレビシリーズに対し、同じタイトルを冠する作品を自己批評するようにつくられている点が興味深い(自己オマージュ?)。そして、奇しくも、エヴァの新劇場版が似た性質を持つ。




よって、2000年代までをオマージュとして成立させている2010年代の創作というものを、見事なまでに体現する作品となったのではないでしょうか。

ある意味で、時代の本質のド真ん中をついていると思うわけです。












・・・なんてね。。


電車で外を眺めていたら思い浮かんだので、とりあえず書いておきましたよと(考えるのが趣味なんです)。

別に小難しいこと考えなくても面白いよ。


キュゥべえは歴代最凶キャラだよ。








sho