2020年10月7日(水)
長崎新地中華街
横浜、神戸の中華街と並ぶ日本三大中華街。
東西南北約250mの十字路になっている街には約40店舗が所狭しと並んでいて、
中華料理はもちろんのこと長崎名物のちゃんぽんや皿うどんを出すお店があります。
新地・・・・・
長崎新地は江戸時代に中国船からの積み荷を保管するための蔵を建てるために、
唐人屋敷の前の海を埋め立てて新たに出来た場所の事です。
新地中華街は明治維新後に唐人屋敷や新地蔵所が廃止されたことから、
在留中国人は新地に移り住んで長崎独自の中国人街が出来ました。
長崎名物といえばちゃんぽんに皿うどん、角煮豚まん・・・うふふ。
長崎新地中華街では中華のお店が軒を連ねていて、名物も本場の味わいで楽しめます。
この中華街は開国して唐人屋敷が廃止された後、中国人が移り住んだ場所。
独特の華やかな雰囲気があり、お腹も心も満たされる場所です。
チャンポン
皿うどん
新地中華街の南門を出て道を渡ったところにある公園です。
立派な門の右側が公園になっています。
この公園はランタン祭りの会場となっていて、お祭りの時期には大変賑わうようです。
雲仙天草国立公園・仁田峠に向かいます。🚘Boooon!!💨
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雲仙天草国立公園
春の艶やかなミヤマキリシマ、夏の爽やかな緑、
秋の一面の紅葉、冬の輝く霧氷などの四季の移り変わりと、
年間を通して楽しむことができるトレッキングが大変人気のスポットです。
仁田峠循環道路より
ミヤマキリシマの見頃の時期は大渋滞となる道路です。
仁田峠までの途中にある第2展望所
ここからも平成新山を間近に見ることができます。
仁田峠
春はツツジ、夏は新緑、秋は紅葉、冬は霧氷と
四季折々の景色が素晴らしい。 (´。✪ω✪。`).キラキラ
普賢岳や平成新山が間近に見られ、
天気の良い日には島原半島や阿蘇まで見渡せますよ~。
一帯に広がる「普賢岳紅葉樹林」は、国の天然記念物に指定されています。
ロープウェイの駅がある仁田峠展望台です。
ちょっと階段を上るとロープウェイの駅があります。
周辺はミヤマキリシマが群生していて、
5月になると薄紫の花でいっぱいになるそうです。
ロープウェイの駅の横からは普賢岳へ向かう登山道があり、
その横に広い展望台があります。
すぐ近くに平成新山を臨むことができ、最高のロケーションです。
ロープウェイを使えば妙見岳の頂上まで行けますし、
雲仙観光の一番の目玉となる場所です。
雲仙ロープウエイ
仁田峠から妙見山頂へは展望360度の空中散歩が楽しめる
雲仙ロープウェイが運行しています。
360度のパノラマ眺望から 標高1300mの別世界へ!
雄大な大自然の景観を満喫できます。
標高1100mの仁田峠から標高1333mの妙見岳までを、
雲仙ロープウェイは3分で運んでくれます。
雲仙ロープウエイ「ぎんが」 定員36人乗りです。
全長11.3kmのそのスカイラインは杉、桧の樹林の側を悠々と進み、
窓から見える有明海、橘湾など島原半島を囲む海の美しさや、
力強く間近に迫る平成新山の迫力などが見所です。
有明海を望みながら数分間の空中散歩です。
- 正式名称 雲仙岳・平成新山
- 雲仙岳は普賢岳,国見岳,妙見岳,野岳,九千部岳などを有する山の総称で,
- 気象庁などでは成層火山に区分されています。
- 平成新山は普賢岳の山体における
- 1990年からの火山活動で形成された溶岩ドームで,
- 雲仙岳の最高峰になります。(日本で一番新しい山・標高1,483m)
- 平成新山の成り立ち
- 寛政4年(1792)の大噴火から約200年後の平成2年(1990)11月17日、
- 雲仙火山の最高峰である普賢岳は再び噴火活動を開始しました。
- 水蒸気爆発から始まり、やがて溶岩ドームが出現。
- 地下のマグマ溜まりから次々と供給される粘性の高い溶岩は、
- 斜面にせり出し、ついには先端が崩壊し火砕流を発生させたのです。
- ことに平成3年(1991)6月3日に発生した火砕流は、多くの犠牲者を出し、
- 火砕流という用語を強く印象づけました。
- 平成7年(1995)5月25日、足かけ5年にわたった噴火活動が終息し、
- この間に成長した溶岩ドームは平成新山と名付けられました。
1990年に始まった雲仙普賢岳の噴火で山頂部に
巨大な溶岩ドームができました。
この溶岩ドームは「平成新山」と命名され,
国土地理院発行の地形図にも書き加えられました。
この山こそが日本で最も新しい山なのです。標高1,483m
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篠塚邸
この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚と言い、代々順右衛門を称し
祖先は三河(愛知県)深溝であるが、寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が
丹波福知山5万石から7万石島原城主として移された時に従ってきて、
明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方筆(書記)や
代官などを勤めた。屋敷坪数はこの辺り全て3畝(90坪)
(案内板より)
山本邸
ここに住んでいた山本家の初代佐五左衛門は、
松平藩主の三河(愛知県)時代からの家臣で、藩主に随行して島原へやって来た。
代々砲術師範として藩の重職を歴任し、幕末まで前後13代の城主に仕えた。
17石2人扶持で、下級武士には珍しいといわれるこの門構えは、
藩主から特別に許されたものだそうです。
当時のままの武家屋敷として今も残っており、貴重な文化財となっている。
(案内板より)
鳥田邸
島原藩深溝松平家2代の松平忠房が寛文9年(1669年)、
福知山から転封の際に従し、屋敷を構えた。
7石2人扶持を受け、下級武士ながら歴代地方代官、郡方物書などを勤め、
幕末には材木奉行、宗門方加役、船津往来番などの重職に就いていた。
深溝松平氏のルーツ、愛知県幸田町のすぐ南、蒲郡市(旧三河国)に
金平町鳥田という地があるのでその出とも推測できる。(案内板より)
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島原城 (森岳城)
元和4年(1618年)から「松倉豊後守重政」が
7年の歳月を費やして築いたものです。
当時、森岳と呼ばれた高地を城のかたちに切りとって石垣を積み、
堀を掘って造り上げました。
約250年間4氏19代の居城として歴史上からも数々の歴史を生んできました。
島原城は、島原の乱の舞台となった場所です。
明治維新により廃城が決定。
明治7年解体されて以来90年、天守閣無き城跡だけがその面影をとどめました。
昭和35年に「西の櫓」を復元、次いで昭和39年「天守閣」、48年「巽の櫓」、
55年「丑寅の櫓」などが矢挟間・鉄砲狭間を備えた長塀とともに復元されました。
夕日に映える 美しい島原城 (17時15分)
有明海を望みながら背後は山に囲まれ、
小高い丘を利用して築かれた島原城。(森岳城)
海と山に挟まれた360°のパノラマを楽しめる天守閣からの眺めは絶景です!
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今日のお宿です。(17時40分着)
夕食(19時20分)
島原半島はその地形と豊かな食材から
「九州の胃袋」と呼ばれるほど食材の宝庫ですよね~!
自然の恵みを詰め込んだ会席料理・・・
とても美味しくいただきました。
温泉を楽しみ、明日のために休みます。
(*˘︶˘*)オヤスミナサイ~。.:*♡