いよいよ、本人も周りも前向きに進みだすことを決意して、毎日をどう過ごすか、どうすれば快適に過ごせるか、余命一か月と言われた彼と、彼を失いたくない周りの人たちが一丸となって、模索する日々が始まった。
まずは、口をつけなかったコロイドヨードの服用を始めた、フコイダンとの両方を毎日、決められた量を摂取していく、彼の会社のスタッフは、中国の漢方的ないろんなスープを作っては彼に与えた。
それが、この時は、なぜかわからなかったけど、もちろん解熱剤はずっと服用していたが、全く下がらなかった40度近い熱が、いつの間にか、37度台になり、熱が下がると本人の意識も日に日にしっかりしてきた。
極度の貧血で倒れて、救急搬送されてから、3週間くらいたったころだった。
これも後から聞いた話だが、普通ならとっくに死んでてもおかしくないくらいの極度の貧血だったらしいが、多分、徐々に貧血になっていたことで、極端な貧血でもショック状態に陥らなかったのは、不幸中の幸いであった。
輸血を受けて、一命をとりとめたけど、目が覚めた時には、巨大な骨肉腫が腸骨に巻き付いて大きくなっていたため、足の根本の骨はすっかり癌で侵されており、腫瘍側に体重をかけて立ち上がれば、崩れてしまうと言われているほどであった。
そのせいでトイレには、介助なしではいけない状態で、なぜか、彼は、彼女二人にその分担をさせたのであった、きっと誰よりも信頼できる二人に、それを委ねたのだ、もちろんそれに対して、二人とも快く介助することをしていた。
ただ着替えをさせるときに後ろから見た姿が今でも、脳裏に焼き付いたままである。
足に浮腫が溜まっていると同時に、睾丸も、背中も、全部浮腫が広がっていたことで、人の姿とは思えないほどの肋骨の上には、カエルのように広がって膨らんでいた、幸いに鏡がないので本人は、その姿を見ないですんだが、見た私の方は、恐怖さえ感じた。
足は、浮腫んでパンパンに足先で腫れるので痛がる。
それを、毎日毎日、ずっと朝から晩までマッサージしながら上に戻してリンパに流すようにしていたが、一時しのぎなので、夜、二人が帰宅して朝来る頃には、また同じ状態が続いた。
それしかしてあげれないとは言え、流石に毎日、毎日、ずっとマッサージをしているとこちら側の疲労感も半端ないものではあった。
そんな状態で毎日二人が懸命に支えてる姿を彼も見ていたので、彼自身も、生きたいという生命力が出てきていたのが私たちにも伝わってきていた。
まず、ここで、いろんな人に伝えたいのだけど、癌の初期症状を見逃さないで欲しい。
彼を見て気づいたことは、頻繁に微熱を出す人だったことと、貧血で顔色が優れなくなっていたこと、足の不調が何年も改善されなかったこと。
そして、もっと早くに健康診断や肝炎の検査を受けていれば、運命は違う方向に動いていたかもしれない。。。
このことは、すでに彼自身が一番悔やんだところでもあるから、強くは言えないでいたが。。
妹の提案で、私と彼女と三人で彼の応援隊の名前でグルーブラインで情報をやり取りすることになった。
余命一か月と言われてから、40度近い熱がありそれが続いていたら、確かに一か月しか生きれなかったと思う。
がしかし、のちのち、これは、いろんな要因があってのことだとは思うが、熱が少しづつ下がっていった。
おかげで一か月がそろそろ過ぎようとしていた。
そして、病院の転移先が決まった。
いよいよ、新しい病院に移動となった。。
病院は緩和治療専門の病院ではなかったが、なかなか近くに緩和ケアのできるいい病院がなかった為、民間の入院患者のほとんどは、介護が必要な老人ばかりの病院だったが、何するにも介助が必要になっていた彼を受け入れてくれたのと、民間の病院なので、特別室を兼ねそろえている病院で、一日の部屋代は、それは高額であったが、お金に不自由があるわけではなかったので、そこにしようということになった。
搬送されて、早々に再度、検査が始まった。。
後日。