中学生になってから
根岸くんは信じられないくらい、
遠くに行ってしまった。
 
私は1年F組。根岸くんは1年J組。
H組までの教室は校舎内にあり、
I組とJ組は校庭内のプレハブ校舎。
4年間、同じクラスでずっと近くにいたのに、
突如として出来た距離。
それに 中学生になった根岸くんは、
別人みたいな変貌を遂げてしまったから。
 
野球部に入った根岸くんは、
ぐんぐん身長が伸び、骨格もひと回り大きく
逞しく日焼けして、
声は誰だかわからないくらい、
低く深く響くようになっていた。
 
物理的な接点がない上に、
そんな根岸くんの変化に
戸惑ってしまった私は、
一言も話しかけられないまま、
しかし、好きな思いは
どんどん募ったまま、月日が過ぎ
再びバレンタインの季節がやってきた。
 
小学校までのそれとは違い、
中学生のバレンタインは
さらに盛り上がりを見せる。
「中学生なんだから、
チョコくらい渡せないでどーする」
私も俄然、気合が入っていた。
 
気合が入ったもう一つの理由に
「好きな人に一緒にチョコをあげよう!」
と誘ってくれた
仲間が出来たこともあげられる。
 
「みっちゃん」の存在だった。
 
みっちゃんの好きな人は
根岸くんと同じクラスの樋口くん(仮名)
だったので、放課後、
部活後に教室に戻ってくる二人を
J組の前のテラスで待ち伏せしよう、
という計画を立てたのだった。
 
仲間がいれば、勇気倍増!
みっちゃんと一緒に
近くのショッピングモールで
チョコを買い、14日に備えた。
 
チョコはハート型とか、そんな重いのはNG。
なるべくシンプルで
サラッとした方がいいよね。
と、みっちゃんと話し合い、
私は緑の箱に入った小さなトリュフを用意。
 
(ちなみに…今は本命チョコといえば
手作りが主流かもしれないけれど、
昭和60年代はまだ市版がメイン。
「トリュフ」というのも、この頃やっと、
市場に出てきたと思う。)
 
そしてやって来た14日の放課後。
 
部活終了までの2時間弱の時間を
みっちゃんとふたり、固唾を飲んで待つ。
 
先にJ組の教室に戻って来たのは、
陸上部の樋口くんだった。
 
みっちゃんはそれまで
身体をクネクネさせながら、
「どーしよ、どーしよ、あ~ドキドキする、
渡せないかも~」
と、弱々しくため息をついていたのに、
樋口くんの姿を見た途端、豹変した。
 
みっちゃんは、J組の教室に入っていく
樋口くんめがけて、ドドドド、と、
イノシシのように突進したのだった。
ものすごい、瞬発力。
何が起こったのか分からないような
猛スピード。
 
J組の教室内には、
7~8名の男子と2~3名の女子がいた。
 
みっちゃんはその中で「樋口くん!」
と叫ぶ。
 
2月14日の放課後に、違うクラスの女子が
教室に小さな紙袋を下げ入ってきて、
男子の名前を呼ぶ。
 
このベタな展開に外野は
瞬時にして、みっちゃんと樋口くんのための
花道を作った。
 
「樋口くん、これ、受け取って」
 
「あ、はい、、、」
 
「オー!!」という、
どよめきとともに、嵐のような拍手喝采。
「すげー!すげー!やるなぁ、樋口」
「カップル誕生!」
「キッス、キッス」
などと一斉にはやし立てる声が上がる。
 
茫然としながらも、
なんとも嬉しそうな、恥ずかしそうな、
樋口くん。
 
そして、頬を赤らめ、うつむきつつ、
得も言われぬ充実感に満たされた
表情の、みっちゃん。
 
これがいつもの、みっちゃん?!
 
こんなみっちゃん、見たことない。
みっちゃんの身体からは、
ピンクとゴールドの粒子が放出され、
教室中に舞っているように見えた。
 
…む、む、ムリムリムリムリ!!
 
私にはとても出来ない。
 
渡せない。絶対に、無理。
 
思いがけぬスポットライト全開の
華々しいチョコ贈呈ステージに
完全に怖気づいてしまった私は、
そのままみっちゃんを置いて
J組の教室を飛び出してしまった。
 
その時前方から、根岸くんが歩いてきた。
野球部の練習着姿で、戻ってきた、根岸くん。
 
「なんでここにヌボボン?」
驚いた顔で私を見る、根岸くん。
 
私は「アワワ…あうあう」
完全パニックに陥り、
うなり声のようなうめき声のような、
へんな声を出して、
踵を返し、速足で逃げた。
 
校庭を出ると、走って逃げた。
そのまま家まで、走って逃げた。
 
道中、リュックの中に入れていた
チョコの箱がカタカタ、
ずっと虚しい音を立てていた。
 
その夜 私は泣きながら、
緑の小さな箱を開け
人生初めての「トリュフ」を食べた。
 
…それが、中学校時代の
「根岸くんとバレンタイン」。
 
 
 
「根岸くんとバレンタイン」終わり