満を持して(?)二回目のエントリーです。

ところでこのブログデザイン如何でしょうか?見て頂く方々の目に負担を掛けたくないと考えて、なるべく「目に優しそうなデザイン」をチョイスしたつもりですが、なかなかイイ感じのデザインだなと自画自賛してます。個人的にかなり気に入ってますが、他のブログで使ってるのをまだ見た事がありません。不人気なのかな?スゲーイケてるのになあ。

 

前回エントリーにて「私の思想等について、つらつらと箇条書きしていく予定」と予告いたしましたが、いざ書こうとすると意外に難しい。的を絞らないと、きりの無いダラダラになりそうだし。

 

とりあえず、巷で論点になり得るキーワードをいくつか取り上げ、それについて私の見解を添える形で進めていきます。

 

 

 

【天皇制】について

現憲法下における「象徴天皇制」は皇室の伝統的なあり方に近いと考えるので全面的に肯定。皇室を敬愛しているが、それは“国民の良心的規範”“日本固有かつ希少な伝統の担い手”という皇室の存在価値を認めているから。

“天皇”という名称も、平安期あたりまでの統治体制も中国王朝の模倣がベースだったのは事実だが、鎌倉期あたりからの統治体制は独自性を発揮し始めているし、そもそも“天皇”という名称は鎌倉期以降、長い事廃れていた名称だ(江戸末期に復活)。だから日本が大陸中国の模倣国家であり続けたという論には違和感を覚える。中国皇帝と天皇の宗教(信仰)的側面での立脚性は全く異なるのだしね。

一部で語られる階級闘争史観的な視点での皇室批判論に関しては否定的見解。日本の歴史において天皇が絶対的な統治者であった期間はごく限定的だったのだから、欧州的な階級闘争概念の対象に皇室を当て嵌める事は適切ではないと思う。

ただ「天皇制は日本最後の奴隷制だ」といった“皇室救済論”は頷くべき点が多いと考える。

余談だが“今上天皇”を「こんじょうてんのう」と読み“今生天皇”とタイプしていたドアホなネトウヨがいた。彼は世が世なら不敬罪でしょっ引かれていたと思う(笑)。

 

 

【憲法9条】について

私は所謂護憲派でもなければ改憲派でもない、“9条削除派”。巷で論争を繰り広げている護憲派・改憲派双方に矛盾と欺瞞を見出している。

自衛隊は明らかに“戦力”であり現憲法下では違憲と考えるが、現状は既に存在する“戦力”をコントロールする術を国家が事実上有さない状態が70年以上に渡り放置されてきた“危険な空白状態”だと考えている。

改憲派は積極的にアメリカの軍事的属国になりたがっている様なものだし、護憲派の主張も今時点での“属国状態”を打破するものではなく、単に現状維持を主張してるに過ぎないんだが、ホントにそれでいいの?

 

 

【安保法案】について

アメリカの戦争に日本人の血を捧げる為の法案であり、採決のあり方も極めて非民主的だし、どう考えても違憲。最早立憲主義の否定。ふざけるな安倍。

所謂“解釈改憲”だが、この法案を喜ぶ改憲派ってしょーもないアホだ。却って改憲への道が遠ざかったってのにね。この法案で日本の安全保障が高まったと考えてるヤツはオツムのレベルが低すぎて話にならんので死んでくれ。

とはいえ護憲派の人達にもこのような“解釈改憲”を招いた責任の一端があると考える。現状はアンコントローラブルな面が多い“空白状態”であるという認識が彼等には無く、逆に「9条のおかげで自衛隊が縛られてる」と考えている。だがそれは大いなる誤謬だと思う。

 

 

【共謀罪】について

この刑法の問題点のひとつは「実行行為がなければ犯罪は成立しない」という刑法の大原則を無視している点。

例えば、銀行強盗を目論み銃刀器を用意したが、その動きが警察に察知され逮捕。これはいい。だが「共謀罪」は「金ないから銀行強盗でもするしかないわ(笑)」と冗談半分で口にしただけで処罰されてしまうような刑法。映画「マイノリティ・リポート」さながらの世界。

そして最も重大な問題点としては、この刑法を運用するにあたり、国家権力による国民に対する様々な監視手段が合法化され得る危険性を孕んでいるという点だ。この怖さを理解できている人は法案賛成派においては極めて稀のようだ。

 

 

【愛国心】について

愛国心とは愛郷心の拡大版のようなものだと思っているが、愛国心や愛郷心よりもっと重要なものは公共心や社会性だろう。ネトウヨ共はこんな簡単なことすら理解できないバカが多い。どんなに愛国心が強かろうと公共心や社会性が乏しい人間なんてクズだ。

多民族を貶めたり、自分達が愛国的ではないと感じる人物を“反日”だのと罵る事でしか、己の愛国心を満たす事ができないというネトウヨ共、そんな邪悪な愛国心など捨ててしまえ。お前らこそが“愛国心を隠れ家にするならず者”なんだよ。

 

 

【レイシズム】について

常々思うのが「レイシズムに反対する資格は、その人がレイシストでなければ誰でも有している」という事。反レイシズムに右も左もない。反レイシズムは現代人が持つべき常識だ。誰もが何処かでレイシズムの被害者になり得るのだから。反レイシズムは他人の為でもあり、自身の為でもある。

ただしレイシストが何処かでレイシズムの被害にあったとしたら、それは「イイ気味」だと思う。普段テメーが誰かをレイシズムの餌食にしてるくせに、テメーが餌食になった時だけ被害者ぶるんじゃねーよ!という事。在特会なんて欧州に行ったら一発でアジア人差別食らいそうな風貌のヤツらばかりだったと思うけどなあ(笑)。

殆んどの場合、自身がレイシストであると自覚しているレイシストは皆無だ。ヤツらはガチで「自分はレイシストではない」と思っている。はっきり言って、ヤツらに付ける薬は無い。自分で自分の愚かさに気が付かない限り更生は不可能。こちらとしては不寛容な者には不寛容で対応するのみ。

 

 

【ネトウヨ】について

20年以上前、小林よしのりが「うす甘いサヨク」と名付けて、今でいう所謂リベラル陣営を揶揄していた。なぜカタカナの“サヨク”なのかというと、氏曰く「明確にマルクス主義を主張したりはしないが、左翼っぽい事を主張しているから」との事だった。

現在、巷では「うすら馬鹿ウヨク」が跋扈している。“ウヨク”は自らを右翼だとは思わず、自身の主張が右翼っぽいという自覚が無い。まさにかつての時代の裏返し現象が出現している。

俗に言う「ネトウヨ」とはこの大方の場合「うすら馬鹿ウヨク」の事を指すと見做してよい。ヤツらは自分が右翼っぽいことを言ってる自覚が無いので、決まって「俺は普通の日本人だ」と訴える。あるいは「俺がネトウヨなら日本人は皆ネトウヨだ」という戯言を吐く。因みに某ネトウヨは「ネトウヨなどいない、各自考えの異なる日本人がいるだけだ」という迷言をドヤ顔で吐いていたが、でもコイツは馬鹿だから「反日日本人もいない」とは絶対言わないだろう(笑)。

忘れがちな事だが、「うすら馬鹿ウヨク=ネトウヨ」の殆んどが、かつて自身が“サヨク”だった時期を経験しているという事。ヤツらは大抵「昔は何となく中韓に対して罪悪感を持っていたが、ネットを見てそれは間違いであり、左翼に騙されていたと気が付いた。俺を騙して罪悪感を植え付けた反日左翼は許せない。」「日本は情けなくてショボイ国だと思っていたが、ネットでそうではないと気付いた。もっと日本を誇ろうと愛国心に目覚めた。」といった所感を共有している事が多い。ヤツらの存在は戦後の反戦平和教育への反動の表れの一つだともいえる。

率直に言うと戦後の反戦平和教育はバランスに欠ける一面があったと思う。子供に自分が生まれた国を卑下させるような教育者が一部存在していた事も事実だ。だからと言って愛国心とやらを植え付ける教育を子供に強いる事もまた問題があるのだが。

今は「うすら馬鹿ウヨク=ネトウヨ」が巷に増えすぎた。なんとか対策を打つ必要があるとは思うが、彼等に従来通りの反戦平和思想を説いても、通じる見込みが無い事は確かだ。

 

 

 

・・・う~ん、本当にざっくらばんな駄文になってしまいました。箇条書きとは言えない長文だし(汗)。しかし私の思想的な立脚点は、ある程度把握していただけるのではないかと思います。

 

今後は折を見て、ここに上げた事を掘り下げて考察していきたいと思います。