料理人としてのキャリアは、学生時代を過ごした大阪からスタートしました。
芸人さんが売れるための験担ぎで、わざと高額な家賃の部屋に住むのに習い
当時手取り18万円の初任給に対し9万円の部屋を借りました。
そして一年後には東京・笹塚の家賃4万2千円のアパートに引っ越し。手取りは13万円。
順調に転落していきます
この部屋で6年間、低空飛行で踏ん張りました。
修業時代の記憶はほば消えかけてます。思い出そうとするだけで
もちろん楽しいこともいっぱいあったと思うけど、私の20代後半は暗黒時代
そんな生活を支えてくれたのは、自宅についていたお湯の出るシャワー
街場のレストランだと帰りは毎日てっぺん過ぎ。銭湯にいきたくてもその時間は閉まっていることがほとんどです。
笹塚・下北沢エリア家賃4万円で風呂付きはかなり難易度高し。あって共同。
疲れ切った体を癒してくれる至福の瞬間
築40年以上、2階6畳一間の角部屋の外、ぎりぎり物干し竿が掛けられるスペースの端に我が家のお風呂はありました
安心してください。カーテンはついてますから。
そんなこんなで公邸料理人としてグアムに派遣される日までお世話になりました。
退去時の大家のおばあさんの言葉は今でも鮮明に覚えています。
「ガム島いいわねー。ガムはうちの主人も行ってたわ。あ、太平洋戦争の時にね。がんばってね!」
余談ですが私の部屋の向かいのじいさんは家賃を3年間滞納してたようですが、大家さん決して彼を追い出すことはしませんでした。追い出したらあの人は行く場所がなくなってしまう、、世田谷人情噺でございました。