蒸す夜は蟇も鳴かざる塩害田
術もなし塩枯れの苗木に帰す
汗や無風や田は塩枯れの乱反射
塩枯れ田錆びし自転車ギコギコ押す
牛の舌より苗枯らす水滴れり
療養中のある年、関東一円は稀に見る巨大な台風の直撃を被った。
キティ台風である。
今でこそ京葉線が横断し、葛西臨海公園、ディズニーランドなど大都市東京の湾岸地域として大発展をとげている葛西、浦安、船橋沿岸も当時は半漁半農の荒れ気味な広がりでしかなかった。
江戸前の海苔を養殖し、東京湾に生息する魚介類を獲り、陸上では米、むぎ、野菜の栽培で生計をたてていた地元民の受けた塩害は測りしれない甚大なものであった。
こうした荒々しい状況に何かがゆすぶられるような衝動を受けて得た句がこれらだった。
当時、既に縁があって句を投じていた横浜の大野林火氏を、ある一日、思い切ってこれらの句その他を携え、病院を抜け出して、確か横浜・弘明寺町の御宅をあつかましくお訪ねしたことがあった。
これも短文として何かへ掲載された記憶があるが、林火氏には「今はこの線で進むことが良い道ではないか」といった温厚な言葉を与えられ、浮き立つような気分で深夜に帰院し医師に叱られたことがある。
一時の傾倒ではあったがこれも一つの開眼だったように覚えている。
その頃から間もなく幸いにも退院の運びとなったのだが、私を待っていたのは生活を立て直すための就職活動という難事であった。
切除手術こそ受けずに右肺の空洞は線状に潰れたものの、パス、ヒドラ、ストマイの薬物治療を長く続けた経歴には社会の職場は冷淡だった。
勧める人があってかなりの努力を経たのちに得た職場も初めのうちはそれほど居心地のよいものではなかった。
それは兎も角、その後知遇を戴いたのは地元の名刹、香取神社の宮司で鹿火屋の幹部同人、原石鼎直門で白埴を主宰していた亀井鳴瀬氏であった。
氏を訪ねて同誌に参加した私に半年ほど経って与えられたのは白埴の編集であった。
当時の句を挙げておく。
種だいじに朝顔を蒔く母は布靴
冬鴎煤煙を貫く穢れじと
原爆映画にゆらぐ人温菜種梅雨
台風圏歯科医の畳蚤とびだす
蛍光電車つつ抜けに響き出水の町
亀井鳴瀬は質樸そのものの土の俳人と言われていた、と同時に、この地に住むおもだった俳人たちに広くよびかけ、行政の支援をとりつけながら俳句連盟の結成に草分けとしての努力をおしまなかった今で言うボランティアに徹した存在であった。
当時教育委員を勤めていた石楠の福田蓬亭はじめ、中黎風、鶴の川畑火川、馬酔木の中村金鈴、山田碧江、雲母の池芹泉、新井反哺など生年で言えば明治末期から大正初めの人々、我々も当時の若手ということで、真剣にお手伝いに励み地方行政における文化施策の一環として短歌、川柳連盟などと連携して今で言うカルチャー活動の先駆ともなった。
この亀井鳴瀬に選を受けたことで私の俳句はかなり大きくカーブの兆しを見せてきたと今も自覚している。
氏の句のあり方は「味、つや、温味」の三原則が持論で、この地元で多産されていた蓮根の句では広く名前を知られる存在だった。
白埴誌に名を連ねていた人を三,四人挙げれば吉川高詩、晝間槐秋、菊池香泊、吉浜青湖、町山直由、蒲田の青巒寺の西波紅といった人々であった。
しかし小俳誌の常として人の集まりは次第に思わしくなく徐々に衰亡を見せるようになり、白埴は鳴瀬自身の健康と共に機運の衰えを見せはじめ、その判断のもとに昭和三十年代後半に幕を閉じ、江戸川区で発行される俳句誌は一誌もなくなり僅かの同志も四散してしまった。(続く)
