「信仰」

便利で都合のよい言葉だ。

オウム真理教の最近の手配犯の連鎖的な逮捕で少しずつ明らかになるそれぞれの本音と彼等の「闇」。

彼等の起こした犯罪については裁判で少しは明らかにはなるだろが、全容解明に期待を寄せるのは難しいだろう。

さて、不況や社会不安が長引けば、宗教に走る人は増加する。

ちゃんとした宗教の門を叩いてくれれば、まあ少なくともテロを起こすような事件が起きる心配はしなくてすむが、カルト、新興宗教等がいつまた再び重大事件を起こす集団に変貌するかわからない。

私は一連のオウム信者たちの言葉を聞いて連想した言葉がある。

それは「負の力」だ。

宗教も信仰も否定しない。人が弱いことは当たり前だし人には何らかの宗教が必要だろう。

しかし、オウム真理教の犯罪者たちは信仰なんてしていなかったのだ。

ただ自分たちの心の弱さに怯えていただけなのではないか。

オウム真理教のすべての「負の力」が原動力となって社会に責任転嫁してあのようなテロに及んだ。結局すべて「現実逃避」が成せるわざだったのではないか。

今の社会にも「現実逃避」したい人はたくさんいるだろう。

人は弱い。私も弱い。

それを認めればいい。

弱いことは悪いことでも恥ずかしいことではない。
しかし、自分の弱さを隠すために「信仰」にすり替えるのは非常に情けないことだ。

先日逮捕された高橋容疑者が麻原死刑囚をまだ信仰しているらしい。

彼は麻原死刑囚を信仰している自分を確認して安心しているのだろう。私には単なる「呪縛」としか思えないが。

17年間の逃亡生活は如何なるものだったのだろう。

しかし、オウム真理教の信者、地下鉄サリン事件を引き起こした面々はオウム真理教に入信する時から地下鉄サリン事件を引き起こすまで「現実逃避」を「信仰」にすり替えただけの話に思えてならない。

「信仰心」と「現実逃避」

そして、現在の日本。政治不信、デフレ、失業、震災、原発、国会議員の言葉の軽さ…。

どこかに心の拠り所は欲しいだろう。

しかし、くれぐれも自分自身を見失わないで欲しい。

そして、こんな時代だからこそ人と人とか助け合わなければ…。

くれぐれも「現実逃避」を「信仰」にすり替えることは避けたい…