私は「生きる」と決めた日から、すぐに考えたのは「私は劣っている」ということだった。

このことがイコール「普通ではない」という感情に近いのかも知れない。

ただ私は目標が明確だったので資格を取ることが「劣っている」ことからの脱却、スタートラインに初めて並べることだった。

資格を取るために勉強しアルバイトしながら生計をたてていた、あの頃。

「死にたい」と呪文をとなえていたような生活から、一年もたっていなかった。

本当に勉強した。多分、大学受験の何倍も。自分でも、こんなに努力出来る自分は新鮮な発見だった。

努力は自信を生む。

資格試験に合格した私は、「劣っている」呪縛から少しずつ解放されていった。

例えば、私が自殺し損ねた時には「あいつは終った」と言われたし、とにかく友人は去って行く。

当時、友人たちはちゃんと就職していて家庭を持ち始めている奴もいた。

客観的に見れば、友人たちは普通で、私はそうではなかったのだろう。

鬱病も含めて…。

しかし、状況は変わる。

ご承知かと思うが、私は現況の組織の中で信頼を得て来年度から新しい施設で主任として働く。

一般民間企業で考えれば課長か、それ以上の職責を背負う立場か。

では、私が自殺し損ねて、私を弾いた友人たちは今どうしているか。

リストラされたり、給与の大幅なカットに喘ぎ、病院に長期入院したり、アルバイトしながら職安通いの奴がいたり離婚した奴も少なくない。

そして、鬱病を発症して私に「いい病院はないか」と相談を持ちかける奴も一人二人ではない。

「普通」なんて、こんな風に数年で「逆転」するもの。

自分が普通か否か(病も含めて)。

『それは、あまり重要なことではない気がします。
それよりも、自分は何がしたいのか、どう生きたいのか。

そのビジョンが大切かと思います。「普通」を追い求めていたら「普通」を超えることすら難しいかも知れません。

自分らしく、でいいのです。自分の価値は自分で決めていいのです。

誰もが、「一般的な普通な」生活で安心したい気持ちは理解しますが、誰かの物差しでくくられるのは窮屈です。』

私はきっと、残酷で無理な話をあなたに話しているかも知れません。

でも、自分に負けないで下さい。そして病気や薬との付き合い方、そう主治医の存在の大きさを、これから感じるのかなあ…。

鬱病と上手く付き合えなければ、道は開けません。