”マリア…まだ僕は蔑まれているかい?
僕なんて…生まれて来なくてもよかったのかな?”
過去に、ある人を深く傷付けてしまった。
ただ”確かなもの”が欲しかった。
幼すぎたあの頃の自分に、未だ縛り付けられている…。
深い闇の中で、瞳がうっすらと開くのが見えた。
「ん…?」
目をこすりながら体を起こし、彼女は辺りを見回した後、
こちらを見た。
目が合うとハッとして気まずそうな表情で立ち上がる。
「ごめん…」
独り言のように発されたそのコトバに、
「大丈夫」とだけ返事をした。
小さくすすられた鼻の音から静かな寝息へと変わっていったのは
すぐの事だった。
顔を隠している彼女の腕の隙間から現れた、頬を伝う一筋の雫。
それを眺めていたら、起こす事も立ち去る事もできなかった。
「少しは、楽になった?」
自分でも驚くくらいの優しい声が出た…。
思わず咳払いをして誤魔化しながら、
「あんまり寝てないって言ってたからさ」と付け加えた。
彼女は川に向かって大きく伸びをしている。
袖から伸びる細い腕が、月明かりに照らされて白く美しい。
その瞬間…、目に入るものがあった。
「うんっ、少しだけど楽になった気がする。
ねぇ今、何時?」
あくびをしながら振り返ろうとしたその左腕に、
迷わず手が伸びた。
彼女は一瞬体を強張らせた後、
冷静な表情で視線の先を見つめた。
「古傷だよ」
そう言って自ら袖を捲り上げる。
月に照らされ、闇に浮かび上がったのは…。
赤みが残っているものや落ち着いて白くなっている
十数本のミミズ腫れと、
数え切れないほどの無数の刻まれた直線が
肩から手首にかけてを埋め尽くしていた。
でも確かに血の気配は一切なく、
全て古傷…、そこにあったのは紛れもない”過去”。
妙に愛おしく思えた。
月明かりを辿りながら、線を指でなぞっていく。
「この一本一本が、マリアへの過程?」
視線は指先に落としたままで問いかけてみると、
彼女がゆっくりと首を横に振るのがわかった。
「…この傷が全て”過去”になったあの時、
隅っこで醜いマリアが産み落とされた。」
「醜い…?」
視線を彼女に移す。
彼女は自分の左腕をじっと見つめているだけで何も言わない。
沈黙に促されて、再び線にそっと触れてみる。
愛おしい線、美しい古傷…。
それなのに、ここから産まれたのは醜いマリア…?
「…こんなにたくさん自分を傷付けてきて、
それをやっと”過去”にできたのに…。」
知らないんだ、何も。
傷だらけになりながらも生き抜いた、
その”過去”も、
それを”過去”にできた背景も、
何もわからない。
むしろ…。
「君を、もっと知りたい。」
雲が、月を隠した。
一瞬だけ、闇の中で目が合った気がした。
風が、間を通り抜けた。
彼女の指が、線を沿い出す。
お互いの指同士が触れた瞬間、
すぐにデコピンで左腕から追い出された。
「知らない方がいーよ。」
無邪気に笑ってそう言いながら、
彼女は捲くっていた袖を元に戻した。
なんであんな事言ったのか、後々考えると恥ずかしくなってくる。
よくわからないけど、でもなんとなく…。
この人を知る事で、自分が救われるような気がした。
しばらく何も言えずにいると、
背中を向けた彼女が少し早口で言い放った。
「単なるお人好しで都合のいいバカ女!」
「…は?」
いきなり言われたコトバに唖然となり困惑する。
振り向いた彼女は目を合わせようとはしなかった。
ただ苦笑いしながら、一言呟いた。
「それが、
”醜いマリア”…。」
ニンゲンは、
なぜこんなにも弱いんだろう。
”愛を 詐称して
罪を 正当化する”
「愛ってね、
偽れるんだよ。
知ってたぁ?」
そんなに哀しそうに笑うのは、
もうやめて…。