彼女は言う。
”マリア”の根源は、ひとつの”裏切り”だと。
そして笑顔でもう一言、付け加えた。
”裏切り”を、”教えてもらった”と。
サラリーマンが一日を終えて、帰路に着く。
そんな、”夜の始まり”。
陽が眠り、闇が起き上がると、
流れてくるは、小さな旋律。
「今日は居た…」
思わず笑みと安心感がこぼれる。
そりゃ、そうだ。
ここ二、三日、夜が訪れても彼女は現れなかった。
不純な動機だが、そのためにバイトのシフトを調整して
もらっていたので、彼女の居ないこの場所は、
ただの空虚な闇でしかなかった。
奏でられていた詞を、うろ覚えに口ずさみながら
自分の”罪”を少し重ねては、ここで一人考え込んでいた。
自転車を止め、耳を澄ませる。
「…が欲しい…」
近付こうとした足が、一瞬止まる。
いつもと違う歌なのかな…?
「…なんて 信じない…」
妙な違和感が、さっきまでの安心を一気に
不安へと引きずり落とす。
「…の嘘をまだ どこかで信じてる…」
彼女の横顔を遠くから見つめているだけで、
なかなか足が進まない。
この人は、こんな歌い方もできるんだ…。
全てを受け入れてくれるような澄んだ声で、
何かを伝えようと奏でるいつもの歌声。
でも今日は…。
なんだか、負の感情が入り混じっているような声で、
何かに、誰かに、叩き付けるような歌声…。
少し離れた所から動けずにただ立ち尽くしていると、
彼女がふと、気が付いてくれた。
一瞬戸惑いの表情を見せた後、哀しそうな目で照れて笑っている。
そんな様子を見たら、余計に不安になる…。
彼女の方へゆっくりと近付いていくこの一歩一歩のリズムで、
徐々に冷静さを取り戻していくその表情が目に見えてわかった。
そして彼女はいつものように優しく微笑みかけ、
その視線を川へ向けた。
「いつもと違う音色だったから、つい…」
そう言いながら、
横に腰掛ける。
「つい?」
すぐに聞き返してきたその声が、
妙に冷たく響いた。
「つい…、不安になった」
ほんの少しの沈黙の後で、
彼女は大きく息を吐き、
その一言を全身で聞き入れるように深く目を閉じた。
その横顔にふと目をやると、
なんだか少し疲れているように思えた。
「二、三日ここに来なかったのは、
その音色と何か関係があるの?」
目を閉じたままで、
いくら待っても無反応だ。
「もしかして…、寝てない?」
すると、小さく頷き「三日…」と呟いた。
「何を抱えてるのかは知らないけど、
睡眠くらいちゃんと取れよ…」
相手は、名前も知らない、
むしろ得体の知れない女性だ。
なのに心の底から心配している自分に、
今更ながらふと疑問を抱いた。
「…私ね」
ふいに口を開いた彼女は、
眠たそうな目でまた川に目をやる。
「”裏切り”を教えてくれた人からね、
ひとつの歌詞を贈ってもらったんだ。
私に…、ピッタリだって。」
そう言い終えると同時に、伸びをしながら寝転がる。
夜空を仰ぎながら、彼女が奏でる詞。
「…優しさを見せたら 取り込まれる昨今
心に愛を 両手に真実を
優しさは 裏切られたって価値があるってこと
裏切られたって 価値があるってこと…」
”コトバ”だった。
メロディは私も知らない、と…
哀しそうに笑って見せてくれた。
「でも…、裏切る事を正当化して、
その人逃げてるだけなんじゃないの?」
嫌味じゃない。
思った事を、感じた事を、
ただ率直に言っただけ。
だって、どうすれば…
美化できる?
「うん……」
声にならないくらいの
かすれた頷きの後に聞こえたのは…
小さくすする
鼻の音だった。