5月7日(金)
相変わらず今いちばん仲がいいのは小学1年生になったばかりの6歳の男の子かもしれない。もっとも、子どもは他にもたくさんいて、同じ小学1年生でもあと6人いるのだけれど――眉唾っぽい表現かもしれないが――フィーリングという面でいちばん合うと感じるのは彼なのだ、そして彼も同じように思っていると信じてやまない。
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合う・合わない、いやこの場合では「より合う・ふつうに合う」というものは人間同士の付き合いの上では確実にあり、だからこれを贔屓だとかいわれてはたまらない。人間同士の付き合いとははるか昔から営まれてきたことであり、だから、むろん平等が大前提であるはずの場面でも「より合う・ふつうに合う」、あるいは「合わない」などの優劣はひそかに、だが確実につけられているはずだ。そういえば、と考えてみて、過去、自分も目上の人から「フィーリング」だけで不当な扱いを受けたのであろう経験はいくつか思い当たる。逆に、自分でも不思議に思うほどの寵愛ぶりを受けたとき、それもまた「フィーリング」以外には理由づけられないというようなこともあった。
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どんな立派な人でも、何かである前にまずはふつうの人間である。ふつうの人間には好き・嫌い、及びその程度が漠然と、だが確実にあって当然で、人を見るときどうしてもその「フィーリング」の眼鏡を完璧に外して見ることなど無理なのではないか。たまたまその眼鏡にかなった人がその場でおいしい思いをして、逆の人は苦汁をなめることになることがあり、それはあまりにも不平等だと思うかもしれないが、また別の人の眼鏡では正反対のことが起こる可能性だってまったくなくはない。人の数だけ「フィーリング」の眼鏡も存在するのだから。いうなれば確かにそれは不平等ではあるが、その不平等さは誰のもとにも平等なのである(世渡り上手ならば「不平等」をうまくかいくぐりつづけられる場合もあるが、それはまた別の話)。不平等さは誰にも平等にある。一見憂うべきものに思えるが、しかし自分ならばそういわれれば半分訳がわからなくなっているということもあるが、「ならば仕方がないか」とあきらめることもでき、「不平等に自分に幸運が降りかかる」ことを夢見る方向に指針を向ける。あまり真面目一辺倒に人間付き合いが廻られてもつまらない。そして、23歳にもなればときどき目上の存在になるときだってあるわけだが、そんなときこそ「フィーリング」の優劣はあるということを肝に銘じ、だからこそ決してそれが彼もしくは彼女の評価を左右するものにならないように気をつけようと思うのだった。
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さてさて、順調に話が脱線した。しかし脱線は今日の場合、結果よろこぶべきものだったかもしれない。なにしろ、冒頭の話題がそのままつづけば展開する文章は以下のようなものだったからだ。
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そんな6歳の彼は、なかなか多忙な生活をしている。小学校の5時間授業を終えて、その後学童保育で学校に残り、それから学習教室に来てくれるのだ。休みの日は今度はじめたというソフトボールに明け暮れ、そういうわけで無尽蔵のバイタリティといえどもお疲れ気味の日は当然ある。その日会って一発目の表情が疲れからか少々不機嫌に思われる日もあり(今日がそうであったのだが)、だけど最終的には前半の不機嫌を補って余りある笑顔をはじけさせてたくさん笑いを提供してくれ帰っていく。すなわち、いつも必ず何らかの方法でもって100点満点にまとめるのだ。その生まれながらの能力に、今日も僕はこれ以上巻く舌を見つけるのは困難だった。……というとりとめもない話。
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フィーリングで流れていく世の中もあるということだ。それはなんともいい加減で、だからもう少し気楽にいくくらいでちょうどいいのかもしれない。臆するなんてもってのほかだ。