4月13日(火)
それは真っ暗な宇宙をゆっくりぐーるぐる回っている星というイメージが適切で、それに乗りそびれてしまったなら再びぐるりと戻ってくる周期を待たなければならない。大げさなものかもしれないが、寝つきのよくない僕は「眠りに就く」ということをそんなふうに捉えている。むやみやたらに「眠りの星」に乗ろうと近寄ってはならない。そもそも相性がよくない僕と「眠りの星」は、意図とは別に、引き合う関係とは逆の斥(しりぞ)け合う関係にあると思えてならない。よってこちらから追えば当然逃げられるわけで、そこはかとなく運行軌道に近いところで待ち、ぐるーり回ってきたところをばっと飛び乗る。いっておくが、夜毎こんな面倒なイメージを働かせているわけでは決してない。
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何もしないままならば、僕と「眠りの星」の間にある「斥け合う力」はかなり強いようで、ときには運行軌道に近づくことすら困難なことがある。そこで編み出したのが「読書する」というもので、それは退屈な「星待ち」の時間をお供してくれるという効果と、両者の間にある負の力を、正のそれに変えてくれるという効果を持つ。頑なに目をつぶって待つのではなく、とりあえず本を開くということを覚えてからというもの、僕と「眠りの星」の関係はずいぶんと好いものになったのだった。
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本にも種類はたくさんあり、単に好きだからという理由でいつも選ぶのは小説だ。古今東西、どれかひとつに絞るわけではなく、気まぐれに国も時代も設定は様々。ここのところ外国のものが多いのは、もしかしたらベッドのなかという心地よい環境上、どうしてもふわふわ浮遊気味の頭のなかに乗じて脳内旅行をたのしみたいという気持ちからなのかもしれない。しかし――まさに昨夜などがそれで――ときどき鮮烈な世界に没頭するがあまり眠れなくなってしまうこともある。あえていうなら、「星待ち」のお供であるはずの本、それにも引力があり、せっかく来た「眠りの星」よりも本の引力が勝って僕を離さないという具合か。派手な話の小説よりも、そこで読むならばいわゆる「文学」というようなものが適しているのかもしれない。
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長時間粘っても読書に効果がないとなればもう策はなく、ひたすらせっせと「眠りの星」を追いかける――根くらべだ。じぃと目をつぶって、「眠りの星」が意地っ張りを諦めるのを期待する。それはとても退屈なことで、そういうときこそ森羅万象あらゆることが頭をめぐる。過去のこと、現在のこと、未来のこと。やるべきこと、やりたいこと、もしあのときやっていたら今どうなっているか、ということ。その他、ほんとうに何でもかんでも考えて、いよいよそれでもだめなとき、いつもあるイメージが頭に浮かぶ。
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それはほんとうに抽象的で、だから文字で表すのは困難なのだが、そこは岩壁に取り囲まれており、下にはおそらくマグマが煮えたぎっている。さながら地獄。そこに別に自分はおらず、音もなく、ただ一本の糸がぴんと張られているのみ。そこに、上からひとつずつ、ごつごつした大きな岩がゆっくり落ちてきて、糸で真っ二つに切断されマグマへと落ちていく。ただそれのくり返し。それが延々と続くのみ。他にも眠れないときに見るイメージは二、三あるのだが、最も多いのがそれで、なぜか落ち着くイメージで、だけどなぜかたまらなく泣きそうにもなる。まったくもって出自がわからないもので、その正体が知りたいと常々思っている。
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そうしているうちに自然と眠ることができているようで、今日も気づけば朝だった。飛び乗ることなんてどうでもよくなった僕を、見かねた「眠りの星」がひょいと乗せてくれたというようなイメージ。恩に着る、というべきなのだろうか。こういったいろいろ、眠りに関しては、人一倍不思議がいっぱいなのだ。