屈折。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 4月7日(水)

 リアルタイムでは8日である。昨日のことを思い出し書いてみる。昨日のぶんは一応書くには書いたのだが、内容のおおよそはさすがにそうではないが書いたことはまったく憶えていない。つまりはほとんど衝動的な記録になっていたようで、それはそれとして二度とない異常な文章は後々自分的価値のあるものになるかもしれないが、より冷静になった今、消して、リライトする。

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 昨夜、ものすごく悩んで心が苦しかった。自分にしかどうしようもできないことで、どれだけ悩んだところで逃げようがないこと。向き合うのはとてもしんどいけれど、決して逃げてはいけないこと(こうして書いていると今日もやはり支離滅裂な文章になりそう)。ひとりの部屋でならば何も気にせず出る感情すべて出して向き合えばいいと思っていたが、どんな感情を出せばいいのか、どの感情主体に問題に向き合えばいいのかわからず、まるで穴のなかに落ちてしまったような気分だった。

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 そうしていても埒があかないので、実体をつかむために思いつくことの限りを書き出してみる。結果、それが昨日書いて今日消すことになったものだ。下手なのか、白紙に埋まっていく文字は心とは裏腹に自分を追い詰めるような言葉ばかり。例えばどれだけ絶望的な状況でも、改善しようという希望さえ持てて書き出すことができればそれ主導で気分も前向きになれようものなのに、それを理解している脳とは連動せず、まるで指先だけがちがう人格をもっているようにどろどろした言葉が次々詰まっていった。なんだか指先から腐っていくような錯覚がして悲鳴しそうになるくらい恐ろしくなったとき、珍しく携帯電話が鳴った。

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 着信時に鳴るよう設定しているのは、淡々としたテンポで哀愁誘う「着うた」で(ちなみに、くるりの「ハイウェイ」)、崩壊寸前の気持ちに絶妙に溶け込むようなその歌が流れてきたときはまるで夢でも見ているような心地がした。あまりにも絶妙で、馬鹿みたいだがそれが携帯電話から鳴っているのか、頭のなかで鳴っているのか判然としなかったほどだ。

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 出れば、比較的共感レベルの高い友だちからだった。センシティブな部分はことさら共有しており、ときどき相づちひとつのトーンで相手が今どう思っているのかがありありとわかってしまうのだ。第一声で、あちらも憂鬱気味であることがわかった(というか、そうでもなけりゃ近ごろ電話をしてくることもない)。ボクもそんな有様だから、話したいこと、もとい吐露したいことはたくさんあったけれど、かけてきたのは相手である。一通りの話を聞いたら、まぁあちらさんもまた気の毒なほどにどろどろしていた。双方複数抱えるどろどろに、世の中の憂鬱の多様さにうんざりなったものだ。

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 話しているうちにさすがに憂鬱色にも飽きてきて、「なんかハッピーな話しろ」とおなじみの注文をしてくる。それは満腹の人間に今何が食べたいかを答えさせる以上に難問で、だけどエンターテイナーに憧れるボクはそういうときこそくり出せる男でありたい。しぼり出した話題に適当に華が咲いて、そうしてなんとなく電話は終わっていった。お互い少し顔色がよくなったのを見たはずだ。

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 そのあと、その日も意地でジョグに出た。幸せならばそれを謳歌するように、憂鬱ならば発散として意味を与えることができるからジョギングとは便利だ。帰ってきて呼吸が整えば「悩む」は再発し、寝て起きれば悩みはじめ、そのまま今に至る。逃げられなくて、逃げてはいけない。でも、ひとりじゃないなぁとわかったらほんの少し前を向けそう。糸口探しに奔走。やならくてはいけない。やめてはいけない。