3月12日(金)
不覚をとった。どうやら風邪をひいてしまった。乗り続けてはや23年目、自分も自分なりに自分の体のことをわかっており、依然として快方に向かう兆しのない腫れぼったい目(3月4日ぶん参照)が多少の判断を鈍らせはするものの、この片道封鎖及び水漏れが認められる鼻周りがもはや花粉症のみによるものではないことは明らかである。
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原因はすぐに思いつくものが複数個ある。事前に芽は確実に出現していたのではあるが、決定打となったのが、先日敢行した「京都一泊練り歩き」であると見てまずまちがいないだろう。体感温度ではふだんの生活よりもぐんと寒い冬の京都で過ごす一泊二日が、この体に応えたといってしまえば手っ取り早くて致し方ないと諦めがつくが、残念ながらそうとは思えない。ウィルスの侵入を阻止できないほど衰弱した体力、すなわち十分な睡眠がとれなかったことに責任の所在はある。
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意味の不明なことに、前日の寝つきも芳しくなかった。およそ3時間。それが二日続けば知らないところで体はもう疲弊疲弊、セキュリティは崩壊しウィルスは軒並み顔パスで上がりこんでくる。
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確定ではないけれど、憎んでやまない風邪をひいてしまったのはほぼ事実である。となれば体内細胞たちによる反省会が開かれる。後から反省点を見つけるのは簡単だ。雨が続いたり雑務に追われたりでもう一週間以上ジョギングから足が遠のいていること。その間ほぼ丸々不摂生の生活になってしまっていること。病人と顔を合わせた後に十分な手洗いうがいをしなかったこと。そう思うといつどんな行動が風邪を助長するものになっていたのか神経質になりかねなく、ふだんの原付きの癖で、ヘルメットをかぶって自転車をこぎだしてしまったことや、カップ焼きそばでお湯を入れる前にソースをかけてしまったことなんかももしかしたら関係しているかもしれない。絶対にありえないことだけれど、しかし誰がそうだと断言できよう? 「バタフライ効果」という言葉はあらゆる可能性を肯定する。
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己のことを無知と知ることで、人は無知から離れていく。この際今ここで「私は確かに風邪をひいています」と認め、宣言することにする。ならば次の一歩が踏み出しやすい。明日は難しいがあさって日曜日は今のところ予定はない。ウィルスが疲れ、飽きるまで好きにはしゃがせるならばこの日である。そういうわけで今週末はなるだけ穏便に、風邪菌だけに捧げることにしようと考える。それは最大の屈辱だが、肉を切らせて骨を断つ、末裔までなで斬りにし、完全なる二日天下にしてやろうと意気込む次第である。
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話を今風邪の主原因に戻す。京都の夜は、前日の睡眠不足に加えその日一日の活動でへとへとに疲弊していたはずである。だのに、やはり枕が変わると眠れぬこの身の嘆かわしさよ。寝つきに関して自信をつけつつあった矢先の厳しい仕打ちである。結びこそ意味深長なふうであったが、昨日のブログで体については「あるがまま」の路線でいこうと決めたところである。この場合のあるがままとは、無理に体質改善を図らずに、「枕が変わると眠れぬ」ままであれ、ということだ。ならば逆算すると、自ずと「眠らなくても翌日平気なように、疲れないようにしろ」ということになる。例えば一泊以上の旅行などの場合、その「置きにいく感じのたのしみ方」は果たして正解なのか? 深刻な問題である。安静必至なこの二日で、そのことについて名案を思いつこう。変な日本語だが、きっと思いつこう。