「サヨナラ逆転満塁ホームラン」はバスで打つ。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 1月30日(土)

 バスに乗っていた。ひとつ前の座席に、若いお母さんに抱っこされて2歳くらいの男の子がこちらを向いて座っていた。子ども、とりわけそのくらいの小さな子どもがたまらなく好きで、ふだんから目が合えばかまわずにはいられない。根は人見知りの自分なのだが、子どもに対しては積極的に交流を図るふしがあり、だからそのときも、是が非でも笑った顔が見たいと思った。

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 持論として、子どもは自分を映す鏡であると思っている。すなわち、純真無垢で打算のない子どもは、反応がひとつひとつ最短距離に正直だ。こちらがよくないことをしたときは素直に子どもの反応に嫌悪感という形で表れる。逆もまた然りで、あちらにとって好意的ならば飾り気のないきちんと相応の反応――ほとんどの場合、笑顔が返ってくる。その喜んだ顔たるや筆舌に尽くしがたい。また、子どもの笑顔にはたくさんの情報が詰まっており、その場合ならば、「今の自分はこの子にとって好もしい存在なのだ」と知ることができる。今この瞬間、少なくともこの子には手放しで好かれているんだ、と。

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 深く考察してみればざっと以上のようになるのだが、日ごろからそんなことを考えながら子どもに接するわけではない。至極単純な理由、要するにこの世でいちばんかわいい存在だから。それだけだ。

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 ボクは幸運なことに悪人相な方ではない。それに加え、そこに子どもがいれば顔がほころんでいるような性質だから、初対面の子どもにも忌避されることはほとんどない。だからそのバスのなか、件の2歳の男の子も、完全に「ゼロ」の表情ではあったが(暖房の効いた車内で眠たかったのかな)、じっとボクの顔に視線を貼り付けてくれていた。

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 なんとかこの子の笑った顔が見たい、と心は燃えた。脳をフル回転させ、この子の雰囲気などから過去のデータに基づいて笑わせられそうな候補を思い浮かべた。もっとも最新の成功例は「いないいないばあ」。そのときのターゲットは2歳くらいの仏頂面女の子で、「いないいない」から「ばあ」のタイミングで白目を剥いて顎をとってもしゃくらせるという強引な手法で大笑いを勝ち取った。あのとき威力は絶大で、今回もそれをくり出せば容易な勝算はついていたが、ぎゅうぎゅう詰めのバスのなか、いい大人がいきなり奇顔に化けるには周りに大人が多すぎた。つまり、最低限のコストで成果を挙げなくてはならない状況なのだ。

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 鼻孔をぴくぴく膨らませる。前歯を剥きだす。ぐるぐる黒目。体裁は崩さぬぎりぎりの奇態を連発するも、この日の審査員は目が肥えていた。とっさに閃いた奇策「サイレイントいないいないばあ」(目をつぶって「いないいない」、「ばあ」で白目)に至っては「あくび」という手厳しい洗礼を頂戴した。万策尽きたと自分のこの世における存在意義を疑いかけた。最後の悪あがきとして、ただ目を大きく見開いてみたらば、そこに答えはあった。にこにことその子が笑ったのだ。しかも、何度やってもその子は笑う。苦労したから余計に、という付加価値を差っ引いても、その笑顔は震えあがるほどかわいかった。

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 それにしても、「あれでよかったのか」という気分。少し疑問符、だけどあれこそが答えだったのだ。あの男の子の笑顔のなかにも、またひとつ新たな教えが詰まっていた――人の数だけ答えがある。土曜日の夜、変な顔のバリエーションを増やすために鏡台の前に立つ自分なのであった。