スモールボイスD。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 1月8日(金)

 どうやらボクは、声が小さい。外出時などは、公衆の面前ということでおそらく気を張っているからか、割に声も張ることができていることと思う。一応自分なりの努力はしているつもりだが、それでもたまに相手によっては度々聞き返してくる人がいて、また、性急な人ならばこの声量に苦言を呈してくることだってまったくゼロでない。ひとつ愚痴をこぼさせてもらうとすれば、何も自分だって好きで声が小さいわけではない。極めてフラットの状態がこの音量なのであって、その「ありのまま」を非難するということは、ある意味では背の小さい人に対して(ナンテコッタ、これも自分だ!)、目線の違いが気持ち悪いから常に背伸びしていてくれと強いることとほとんど同じだ。この愚痴はしかし、開き直っている、もしくは己の正当性を高らかに主張しているものではない。声が小さいことは事実であり、例え先天的なものであるとしてもそれによって先方にストレスを与えるのならば、少なからぬ非はこちらにもあると甘受する。それを認めた上で、非難する人たちにも譲歩、いや、理解を求めたい。

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 この際言えば、まず、自分は大学で曲がりなりにも「専修」という形で研究し、それに関わる論文を書き、卒業を果たした。地球が逆回転しても褒められるような学生ではなかったけれど、きちんとした気持ちでそれに向き合ったつもりだ。その上で――。考えようによっては、この自分の「地の声量が小さい」ということはひとつの「障害」であると言える。今や「○○障害」と名がつくものは幾多あり、定義や診断基準が曖昧なものであるために(それは仕方がないことと思う)、例えば児童ひとりひとりにあらゆる障害のチェックシートでもって印をつけていったとして、最後まで白紙で終わる児童などおそらくひとりもいない。それだけ「障害」とは(ほとんどが疑惑、で終わるものだと思うが)身近なものであり、種類もどんどん増えてきている。今後も新たな種類は増えていくことも容易に予想がつき、いつの時代か、ひとつも「○○障害」を伴っていない人間の方こそ心配される、という奇妙な逆転現象が起こることも想定できる。そんな観点で、自分のこの症状もまた「障害」もしくはそれになり得るものと考えている。

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 もしかしたら、話がシリアスな方角に向いてしまっているかもしれない。話題を広げておいて、実際本人は肩の力など自慢のなで肩を差っ引いても抜けきっている。つまり言いたいことは、声の小さい人にも一定の理解を示してほしい、ということだけだ。それは往々にして人間関係を構築する上で最も重要と言われる「コミュニケーション」に関わる問題である。そのため、やはりこちらも開き直るつもりは毛頭なく、少しでも地力を上げようと意識、努力はする、しなくてはならない。大した考なく、感情の先の先の方の衝動だけで行動に走るのはいけない。熟考する、ということを含め、互いにもう少し努力する気持ちがあれば軋轢のようなものはぐっと少なくなる。これは自分でも驚くほど話が飛躍している。

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 発声法やハウツー本、この症状を改善する方法はおそらくたくさんある。それ次第では、自分はこの世でいちばん地声が大きな人間にならないとも限らない。しかし冷静に、現状で判断するならば自分は発声に関しては少々不得手であると言えよう。そう結論づけて可能性を狭めるのはいけないという一理もあるだろうが、あらゆる判断材料のひとつに「発声、不得意」を入れるのも悪いことではないかもしれない。すべて、どんな特徴をもつ人にも輝ける場所はあると考えている。そうでないならきっと嘘で、ならばその判断が自分を輝ける場所に導くものにもなり得るのだ。声が小さくてよかった、と心から言えるような日が来れば最高だ。その賛歌もまた、おそらく小さな声なのだろうけれど。