「目」に狂う。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 12月14日(月)

 目を、手鏡でもってじっと見つめた。事の発端は起きぬけのめばちこ疑惑。なんだか目にそれらしき違和感があったため、明らかにすべく手鏡とがっぷり四つで自分の目と相対してみたのだ。余談、かつ矛先不明の怒りになるが、「めばちこ」という言葉は辞書には載っていない。電子辞書の広辞苑にはかろうじてあったが、それは「めばち」とずいぶんスリムな姿で掲載されていた。愛用の紙媒体「新選国語辞典」には「めばちこ」はおろか「めばち」すらも載っていない。これからは少なくとも自分はそれを「めばち」と言おう。インテリぶりたいわけではないが、きちんと言葉は使いたいのだ。

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 さて、鏡に反射する自分が目に映りこんでその目の奥にもまた自分が映りこんで……と無限にくり返される様がわかるほど接近して我が目を見つめてみた。すると縁は確かにほの赤く腫れていた。しかしそれが「めばち」であるかは自分にはわからない。なにしろ未体験のもので、実はそれがどういう症状なのかもよく知らないからだ。昔から欠伸をしたときに流れる涙量が尋常ではない自分。思えば夕べはふとんに入り読書をしていてもどうにも決定打となる欠伸がなかなか到来しなかった。そのせいで欠伸の無駄撃ちを乱発する破目になり、その涙が今日の腫れを引き起こしたのだと合点がいった。

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 化粧する必要のない男、自分の顔というものはふだんふつうに生活をしているとまじまじと見る機会はなかなかなく、だからこういう機会(11月29日ぶんなど)があるとついついじっと見入ってしまう。自分の顔とは、ありのままを見ることは不可能だと言われている。今回のように鏡で見ても、それは反射したものであり何より左右が入れ替わってしまっている。写真もまた、あらゆる工程を経た末のものであり、リアルタイム、時差なしの自分の顔は、自分だけが見ることができないのだ。

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 「目」に関するエピソードをひとつはさむとすれば、かつて、自分のこの「目」をいたく気に入った大人がいた。それは中学のときの国語教師で、ボクは謂われなき悪事についてその先生に正対で叱られていると、理屈っぽい説教を――それも、まもなく説教のサビを迎えようかという局面で、突然中断してまで「や、あんたきっれいな目やないの」と素で言われるということがあった。はじめ、目を見てきちんと説教を聞いてほしいがための特殊な手法かと思ったが、「ちょっと下向かんとまっすぐ前見て」と言われたアレは、本気でこの「目」を見たいらしかった。おかげで説教は思わぬハッピーエンドをみることになったのだが、あの日の「これでいいのか」感は今も鮮明な記憶として残っている。

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 それで、今回は「目」だけをじっと見つめてみた。すると奇妙な感覚に襲われる。いちばんよく知っている目のように思える反面、見たことのないような目がこちらを見つめ返しているような感覚だ。むろん、あれから何年も経ったこの目はずいぶん汚れたようで、今もあの日の逆転満塁ホームランが打てるような目では残念ながらなくなった。引きかえに、少し、渋みが増したくらいだ。知っているようで知らない目、もしくはその逆。「視線を感じる」とか「眼力」というのはどうやらほんとうのようで、見つめる目――それは同時に、見つめられる目は互いに離れられなくなり、この世でいちばんの重力につかまったように動けなくなった。そして、怖い、という思いが大きくなっていった。目が、これほどまでに怖いものなのか、と――。

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 そのまましばらく――だからもうずいぶん長い時間だ、離すことのできない「目」を、見つめ、見つめられていた。すると、穴、と思った。特に目の輪郭を注視するとそれはよくわかる。これは穴だ、と。そう思うと、眼球が消えて、黒い穴が開いただけの自分の目が見えた。その穴は深い、というよりは上下左右、いやもうそんな区別もつかないくらい際限なく広がっていて、宇宙もこうなのだろうかと考えた。怖かったのだけど、離せなく、仮に離せてもそうしたくないと思わせる不思議な力が「目」にはあった。音を上げたのは手鏡を持つ右手だった。感覚などとっくになくなっていて、手鏡の重量が関係してではなく、ふっと握力が消えた瞬間、目の前の「目」の世界は終わった。

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 ああ怖かった、とふつうに戻り、おもむろに時計を見ると、信じられないくらいに時間がすすんでいた。まるで、時間の流れが異なる世界にでも行っていたような気分になった。目を、じっと見つめるのは危険だ。目には何か、確実に力がある。仮にあれが、「穴が空くほど見つめた」結果のものだったとしても、それもまた眼力である。自分の目で自分の目を見るのは禁じ手なのかもしれない。