そして部屋を明るくする。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 12月10日(木)

 降水確率80%として広がる今日の空、せっかくの華の木曜日でもこんな天気では外に出る気には少々ならず、だから久しぶりに自室に亀のようにこもっている。照明を点けずに過ごすには今日は曇りすぎており、しかしなんとなく机のスタンドの明かりだけでやり過ごすうちにぼちぼちもう夕暮れだ。見えていないにも関わらず、それでも太陽は時間通りに役目を終え、日没によるライトダウンも反映され、空はますます暗みを増していく。

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 どうやら自分は末端冷え性のよう。室内でも十分、底冷えのような嫌な寒さを感じる。夏の暑気払いは仕方ないものとして、寒さ凌ぎのエアコンは、自室に限り極力使わないようにしている。自分を形成するひとつ「甘っちょろさ」、睡魔なそれが大好きらしく、嗅ぎつけるやまたたく間に口説き落としにかかってくる。それを快適な室温に調整でもしようものなら、それこそ睡魔にされるがまま。冬の寒さを逆手に取ってガードレール代わりにし、眠りという千尋の谷に落ちてしまわぬよう切実な抵抗をしているという具合だ。

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 濃いめに淹れたブラックコーヒー、興味深すぎて参る手品の本、時間差で更新される世界のサッカーニュース。睡魔の足音が近くに聞こえればそれらに刹那逃げこんで、再び遠ざかるのを待つ。なかでもてきめんに効果をもたらしてくれる利器がある。エレキギターだ。睡魔がいよいよフェロモンむんむんのフレグランスで誘惑にかかってきたときは、ひとつ彼に助けを求める。近ごろはもう、起床と同時にチューニングを合わすようにしている。いつでも鳴らせるように――。ぼーっとした意識のなかでギターとアンプを繋ぎ、アンプの電源を入れる。音を歪ませるGAINというツマミを少し回し、VOLUMEは最大に。最後にギターの各種ツマミも回しヘッドフォンを装着すればそこは轟音のノイズの世界だ。なんでもいい、手に染みついたコードをひとつ鳴らせばただのノイズは秩序を得、明確な衝動として全身に針を突き立てる。睡魔などは影も残らず消失する。やかましくてたまらないのだ。

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 エレキギターをよく弾く。こんなふうに倒せど減らない睡魔退治として、ももちろんあるが、ある程度まとまった時間専念することもしばしばある。自分のなかで第二次エレキギターブームが到来している今、第一次に比べると人間がだいぶ理屈っぽくなってしまったのかもしれない。いつのまにか自分が大切にすべき「エレキギターとは…」という理屈をいくつか確立しはじめている。恥ずかしくて言えないが手短にひとつ、「衝動だ」というものがある。気分を盛り上げるために贔屓の曲を模倣しようと試みて、音は外していないはずだがどうにも別ものに聞こえてしまう場合がある。衝動、勢いが足りないのだ。多少指の運びが雑になろうとも、よっぽど衝動を強めた方が納得のいく音が出る。単純に原曲から聞こえるものだけがすべてではないと遅まきに知った。

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 好きと公言する人は数多くいるが、自分もまた「星の王子さま」の話が大好きだ。ときどきむしょうに読みたくなり(そして今も!)、感じ入るところは毎回異なるが、一貫して驚かされる場面もある。きつねとの対話の場面だ。「肝心なことは目では見えない」。はじめて読んだとき、たいして芯をとらえた解釈はできなかっただろうが、これはとんでもない言葉だという予感はし、すぐに脳裏に刻印された。

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 近ごろ、そういった考え方が頻繁に顔を出す。目に見えるものだけが、耳に聞こえるものだけが、触れられるものだけが、すべてではない――。きつねは言った、「ものは心で見る」。さらに自分はこうも考える。目に見えるはずのものを耳で、耳で聞くはずのものを手で、手で触るはずのものを目で、など、それぞれちがった方法で捉えようとすれば、まったく新たな解釈が生まれることもある、と。

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 気づけば辺りはさらに真っ暗だ。薄ら明るい室内、自分以外に誰もいるはずのない室内、どうにも物陰から視線のようなものを感じるわけだ。心で、実体なきそれがなんだか見えていて少し怖い。ついに睡魔が見えるようになったのだろうか。