12月8日(火)
なにはともあれWORD画面を開き、テーマ足りうるものを求めて脳内を詮索する。毎日書こうと心がけているこのブログ、しかし生活していて「よし次はこれをテーマにしよう」というようにメモしておいたり、ストックしておいたりすることはほとんどない。書く段になり、自然にぷかーっと浮かび上がってきたものこそが今書きたいもので、それがその瞬間もっともホットで、正直なものだと思うからだ。当初は、毎日しっかり書くということで、枯渇せずに日々ちゃんとテーマがあるものかと不安な船出だったものの、気づけば――質は度外視するとして、一応毎日何らかのテーマのもとに書くことができている。
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これは昔からで、おそらくこの先も基本的にずっとそうだろう、自分は、自分のことがよくわかっていないと感じている。ほんとうは何がしたいのか、ほんとうの気持ちはどうなのか、ほんとうにそれはほんとうなのか。優柔不断とか、そんな言葉で片付けてしまえばそれまでだが、ときどき、自分で自分がいまいちよくわからなくなることがある。いわんや、他人からしてもきっとそうだろう。あいつのほんとうのところは――? と。
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そんなつもりはないのだが、おそらく、弱さを隠そうとするふしがあるのだ。何ごとにも動じず、自信ありげで、余裕のある自分。そんな姿に近づこうと自分をだまし続けているうちに、やがてその意識が麻痺し、自分をだましている自分こそがフラットな状態になったのだ。だけどいくらそれに慣れたと言っても、所詮それは「無理をしている」ということに他ならず、ふとしたときに最もありのままの自分が顔を出す。その目はいつだって悲しそう、というよりも「哀しそう」だ。
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少しずつ、「ありのままの自分」を引きずり出そうと意識をしてみた。その目に見つめられると、今の自分はやっぱりしんどいなぁとついに気がつきはじめる。そうするとようやく冷静に自分を見つめる隙が生まれ、顧みてみると、このまま偽りの自分が大きくなっていけば、完全にそれだけで自分を形成することになる、と怖くなった。そうなったらもういよいよ「自分は自分ではなくなる」、と言い知れぬ恐怖に包まれた。文字に起こせばありきたりなSFのようになるが、現実世界ではともすればもっと恐ろしい解釈があるのだ。
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そんなときに、今現在継続しているこの試み「まいにち文章」(ナンジャコノ名前!)を思いついて、閃きの瞬間ぴんと掲げた人差し指でそのままこのワープロ専用パソコンを起動させたのだ。心機一転、ありのままの自分で綴っていこう、とレトロな立ち上がり方をする画面を見ながら決意した。しかしふたを開けてみたらば……だった。毎日それなりの文量を書くのだ、スタイリッシュな自分を演じられるようなぬるさはそこにはなく、ありのままの自分でもって亀のように身をちぢめて一時間そこら没頭しなければ、とてもじゃないが続けられないとすぐにわかった。
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それからは少しずつだが、まずは白紙が文字で埋まっていくその画面の中に、そこから徐々に実生活においても、ありのままの自由な自分が出没することが多くなった。むろん、したいからと言って市立図書館で豪快に放屁したり、不要な釣り糸を池に捨てたりするような横柄さはないが、大した考は経ずに情けないアクシデントやときにはたしなめられるような愚行などが多発するようになった。ずいぶんと格好悪い人間になった。だけど、それがほんとうに楽で、なにより、時折ふと聞こえてくる「ほんとうに、ほんとうなのか」という声が聞こえなくなった。オ、自分だ、と嘘みたいだがそんな実感が確かにあるのだ。
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そういうわけだから、またひとつ、ブログのモチベーションが新たに加わった。それはおそらく、最も主要なうちのひとつになるだろう。毎日書くことはつまり、ひとつひとつ、武装を外していく作業なのだ。まだまだ先は長い。下手すれば、また隠れてこそこそと武装することもあるかもしれないし……。あせらずこのまま続けていこう。
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今日は何を書こうかと真っ白の画面を眺めて考えていると、一定時間が経過して画面は省エネモードに切り替わった。それは広い宇宙で、雑な宇宙飛行士がさも遊泳しているようにうろちょろするという愛すべき残念なものなのだが、言えないが、今日はそれに関するくだらない内容を書くつもりだった。だけど気づけばこんな内容になっていた。つまり、書くべきはこちらだったということだ。あっちを書いていたと思えばゾッとする。