12月1日(火)
「もう12月……」という類の言葉が今日、日本中でいったいどれだけ多く飛び交っただろうか。基本的にベタな自分も当然それは思わずにはいられないのだが、同時に天邪鬼という性質も持ち、勝手に将来の天邪鬼世界の旗手を担うつもりでいる自分は、だからあえて口には出さず心にだけ留めておくささやかな反抗をした。
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そんな12月はじめの日、やはり映画館に足を運んだ。別段これといってぜひとも観たいものがあったわけではないが、できるのならばやっておいた方がよいというものは多くある。沸騰まで熱が高まっていなくとも、そこそこに高温ならば活かせる機会は有効に利用しておいて損はない。こちらの熱が沸騰する瞬間と、好機が見事にバッティングしてくれる奇跡なんて人生にそうそうないものだ。例えこちらが常温だとしても、好機と見るや貪欲にそれを掴むような姿勢でいること。いかんせん常温なものだから、その瞬間に得るものが少なかったとしても、経験として蓄えておき、それがいつの日か熟成するとおもわぬ収穫に化けることだってあり得るのだ。経験とは、いきなり収穫物として活きてくるものもあれば、それのように種としてのものもある。種がなければ何も得ることができないように、有益と思えるような経験は買ってでも積んでおくべきなのだ。そのためにも平常時から好機を見逃さない活眼や、また、それと見るや即行動できるフットワークの軽さも身につけなくてはならない。
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さて、飛躍しすぎた、なんの話だ、映画に行ったという話だ。もちろん単身。ちょうどお昼どきに来たせいか、こんな日にも関わらずシネマコンプレックスのフロアは、割に人が少なかった。開場すぐくらいに席につき、ぼぉっと座っているとぽつぽつ人が入ってくる。そこは指定席制で、一般に観やすい席と言われるところから埋まっていくわけで、ひとりかふたりずつの来場ではあるが、それは予告映像がはじまるまで一応途切れることなく続いた。
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そのくらいの時間になるともう、この回のおよその客数が予想できるものだ。周りを見渡すと、自分の座っている席をだいたい中心に、20~30人くらいの客がところせましと客席上の方真ん中に固まっているという異様な光景だった。この一帯以外の席はガラガラだ。ボクはあーあと思った。
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そして本編の幕が開けた。すると、遅れてやってきた人が申し訳なさげに、存在感を消しながら席を探して、半券に記された番号を見つけると、ささやくような声でスミマセン、スミマセンと横歩きで自分の番号の席についた。直後に、また別の遅れてきた人がまったく同じ行動をとった。そうなるとどうしても意識はそちらに向いてしまうもので、映画の冒頭はあまりきちんと観られなかった。
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だからと言って、その人たちに対して怒りは感じない。遅刻にやんごとない事情があったかもしれないし、自分が今後遅刻しないとも言い切れないからだ。ただ――もしかしたら怒りよりも根が深いかもしれない、申し訳ないが、彼らのとった行動が自分にはまったく理解できなかった。あれだけ明らかな空席があるなかで、自分の番号に固執するその訳が――。
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重ね重ね言うが、これは単に「自分とはちがう考えの人がいるんだなぁ」と思う程度で、まちがっても非難をしているわけではない。それに、そういう意味では「従」の関係である客は、「主」である映画館側の指定にきちんと従うのは何もまちがっていないということもわかっている。総合的に、あの客が善か悪かを決めるのはできないが、少なくとも指定の席につくことは善だ。だけど、どうしても自分にはその正直さが理解できなかった。
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人の数だけ考え方があるわけだから、誰かの最良が、誰かの最悪になることだってきっとある。だからそこを客に委ねるのではなくて(そもそも空いていれば指定外の席に座ってよいルールなんてないのだけど…)、「融通」、そこまでを「主」である映画館側が、厄介な問題だけど取り決めていただきたい。
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どうにも支離滅裂な文章になった感は否めない。だけど、融通が確立されれば、世界はもっと滑らかに、たのしく廻りだすことはまちがいない。映画「なくもんか」はおもしろかったです。