6月25日(木)
今日はくだらない内容で、話があっちいってこっちいってとなる予感がびしびしする。とにかくはじめてみよう。
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星の数ほどある言葉、それらはただ発するだけならどんな小さな規制もないが、正しい意味で用いるとなると、少々敷居が高い言葉というのがいくつかある。正しく使うには、言葉の敷居の高さはどれも平等ではない。
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例えば「社長」とか「キャプテン」とか「王様」とかいう言葉。これは敷居が高い。自分のことを指すためにその言葉を用いたければ、そのためにはそれになっていなくてはならないから。精鋭ばかりがいる団体と、ぼんくらばかりの団体とでも、敷居の高さはまた違ってくる。似たようなものだと「優勝」、これもまた敷居が高い。正しく(正しく、とは能動的にという意味か?)その言葉を用いるには相手を打ち負かさなくてはならないからだ。一対一で雌雄を決する試合と、例えば競馬のように、たくさんの敵と戦って最終的に一番にならなくてはいけない試合、どちらも「優勝」と同じ言葉を冠されるが、大変さの質は双方では異なってくるだろう。もちろん一概にどちらが大変かは決められない。前者は一対一と言えども、だいたいは何回戦も重ねる必要があり、後者は一回きりの勝負だけれど、たくさんの敵を相手にする必要がある。どちらもそれぞれ大変だが、同じように「優勝」と言うのは……、いや、言葉の意味を見ればどちらも正しいのだけれど、何か少しちがうような気がする。ただ、こんな問題提起をしておきながら何だが、わざわざ議論する必要は皆無だと思うわけであり、速やかに流されたし。
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あれこれ次々と浮かびあがるわけではないが、他にも、一人称の中にある「拙僧」という言葉。これもまた敷居が高く、誰でも自由に使っていいものではない。これは自分を謙(へりくだ)っていう言葉なのだが、正しい意味は「僧が自分自身をいう謙称」とある。「僧」、つまり仏道修行をする人のみが使うことの許される由緒正しき敷居が高い言葉なのだ。使いたければ仏道修行の扉を開かなくてはならないということだ。
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さらに「上梓」という言葉、この意味のひとつには「図書を出版すること」とある。本を一冊書くのだけでも大変なことなのに、それをさらに出版にまでこぎつけることができてはじめて、この「上梓」という一見何の変哲もない言葉を使うことができるのだ。この言葉をはじめて知ったのはもうずいぶん昔のことだったが、当時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。とにかく「たくさんのものを背負っている言葉だな」と感じた。いけしゃあしゃあと話をわき道に反らすが、高校の頃(だったと思う)に「coincidence」という単語を知ったときも衝撃的だった。衝撃はその日本語訳。翻訳したときに分かる両語間の文化のちがいにはたのしませてもらっているが、これは特別だった。coincidenceを日本語に訳したものそれは「偶然の一致」。なぜそれを一語で言う必要があったのだろうか、と。便利よく一語で言えることの必要性があったほど、あちらでは偶然の一致というのがたくさんあったのだろうか。後に知った「catastrophe」が「突然の大変動」というのもまた、自分の中でそれこそがcatastropheだった。なにせ、それに加えてこれには「悲劇的な結末」というナンジャソラな日本語まであるのだから。
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ボクは言葉にとても興味を持っていて、できる限りたくさんの言葉と出会って懇意になりたいと考えている。そのためには敷居の低めの言葉だけでなく、そういった敷居の高い言葉とも親密なお付き合いができるように、そういうアプローチで自分を高めていこうと思った。