100点満点はとれないのだから。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 5月7日(木)

 例えば自分の場合、すでに「後悔はしないように生きよう」ということを決めている。これは「できるだけ…」というレベルの方針ではなく、「この先一度だって…」という並々ならぬ思いをもって打ち立てた誓いであって、ではそれを遵守できているのかと問われれば、「あれから一度も後悔していない」と言えば嘘を言ってしまったことになる。そのくらい、人間が己に対して誓うこととはいい加減なもので、つけ入る隙のないほど完璧にやり通せることなどない。それはどういう誓いなのかという種類にもよるものだが、少なくとも自分の誓いは、これからもまだまだ長い一生を通してそもそも完遂などできる種類ではないものだ。しかし、今の自分がもし、まさにこれから誓いを打ち立てようとしている自分に会うことができれば、「どうせお前は完遂できないのだからやめておけ」と助言するかどうかを考えてみれば、間違いなく、しない。なんなら一刻でも早くその旗を掲げるよう手伝ってやるかもしれない。きっと、あの頃の自分は、今の自分の姿を見てもガッカリはしないはず。何にも成し遂げてはいない自分でも、少なくとも気持ちだけは背伸びして打ち立てた誓いによって、ずいぶん気丈になれたのだから。

 自分が非力、もしくは力量知らずなだけかもしれないが、なかなか設定した誓いや目標を達成できることがないような気がする。いつもいつも(結果がはっきり開示されないものもあるが…)、あともう少しというところ止まりな場合が多い。単純に力が及ばないのか、そもそも無茶な目標かは分からないが、だけど、だめだったとき、あと一歩なのにいう実感はよくある。そこで、なんとかポジティブにできないものかと、発想を逆に考えてみた。それは、ハナからさらにひとつ上を目標として取り組むこと。そうすれば、あと一歩目標に到達しなかったとしても、ぎりぎり届いたそこは少なくともノルマの上。自分の設定したものには負けたとしても、結果は少しも悪いものではない。そう言えばサッカーをしていたときもこれと近いこと、「練習で100できても試合では80しか出ない」という妙に落ち着き腐ったことを考えていた。そして「試合では2割減になるのならば、減ってもなお余裕があるくらいに上手くなろう」と短パンには似つかわしくないような結論を出していたっけか。過去と今、考え方がちっとも変わっていないのだからこれが自分なのだろう。だから、どこかすっきりとしないけれど、自分の目標には負け続ける方法でいくのが自分の正攻法で間違いない。その証拠に今、後悔は「まったくしない」という目標には早々と敗れてしまったが、その下にある「ほとんどしない」というところにはたどり着いている。昔に比べると、確実に不毛な後悔をすることがなくなっている。よくない結果を見て、即後悔というふうにはならなくなった。

 設定する目標は、そこに現実的な苦しみを伴っていない無鉄砲なものだといけない。例えば自分の場合なら「億万長者になる」というような。確実に近づくことが急務であるという、切実な目標でなくてはならない。なぜなら、それがどういうものかを細かく理解できているから。

 ここでひとつ、新たに目標を、誓いを打ち立てたい。もうひとつくらいなら増えてもきっとパンクはしないだろう。「愚痴をこぼさない」、これだ。包括する言葉が「愚痴」で正しいのか分からないが、弱音や不平不満もこぼさない。一切、だ。この時点では本気で、死ぬまでひとつもこぼさない覚悟でいる。常日頃たのしませたいと考えている自分だ、そんな真逆の姿をさらしてはいけない。だからひとつ、そういう信念をもってこの瞬間から気を張っていこう。手始めになんだ、今からちょうど晩ごはんなのだけど、今日は「カモンにんじん!」という気持ちにすらなっている。