思い出して笑う。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 4月24日(金)

 笑うことが好きで、いつも笑いを追求する理由は、その間だけは種々雑多のマイナスなものを忘れることができるから。ただひたすらたのしいだけの時間が、笑っている間だ。その強烈な力を知ったのはもう十年以上も昔で、とても悲しい親族のお葬式のとき、いとこと談笑していて笑っていた間だけは、頭の中は完全にたのしい気分のみだった。その直後にまた悲しさが押し寄せてきたのは間違いないのだが、その日唯一頭の中から悲しさが消え去ったのは声を出して笑っていたあのときだけだったことは、今でもとても鮮明に覚えている。その日を境に、おぼろげではあるものの、ボクはたくさん笑いたいと思って日々を過ごすようになった。スタンスの軸ができたという意味でも、あのお葬式は自分のターニングポイントと言えるかもしれない。

 そんなふうに考えている自分でも、毎日毎日誰かと一緒にいてげらげら笑っているわけではない。かと言って、ひとりでいるときはいつもお笑いのDVDを見てげらげら笑っているわけでもない。それでも、それらをしているときは、積極的にげらげら笑っているから問題ないが、ひとりの時間も笑っていることが多い。もちろんまともな人間だから、ひとり部屋でげらげら笑っているわけでもなく、にやにやしているわけでもない。奇を衒(てら)った言い回しになるかもしれないが、心の中ではよく笑っている。表情に出さずに笑っている。

 なぜひとりでいてそんなにも笑うことがあるのかというと、大きく分ければふたつ。本当に起こり得そうな状況の滑稽な展開を考えておもわずにやけてしまうときと、「思い出し笑い」だ。展開の妄想でたのしめる人はそう多くはないと思う。そもそもそんなことをする人自体があまりいなさそうだ。決して自分のそのコントのようなものが、万人におもしろいものだとは思わず、自分に対しておもしろいというだけのものなのだが、そうやって自分をたのしませることができるのは持っていてよかった特徴だ。一方で思い出し笑いは、きっとたくさんの人にも経験があると思われる。ひとりで電車に乗っているときなどに、ふと過去のおもしろかったことが思い出されて、こらえきれずにやにやしてしまった覚えは誰しも一度や二度はあることだろう。それもまた笑っていることであり、その間はただおもしろいだけ。それがボクはいつだって欲しいときにだいたいできる。要するに、ボクの思い出し笑い用の箱には、いつだって新鮮なものがいくつか入っている。昔の記憶が強烈なあまり、万一のときに笑える素材がなかったら大変なことになるという危機感を持ったためか、不測の事態に備えて笑いの蓄えをするようになったのかもしれない。だけど心の暗雲を吹き飛ばしてくれるほどの笑いになればなるほど、鮮度を保つのは難しい。それでもないと不安でストックは絶対に必要だから、自分を笑わせることのできる素材をいつもなんとかして調達する力も備わった。多くはきっと、他者と共感などできないようなマニアックな素材だろうが、自分を救うことさえできれば笑いはどんなものだっていい。話が飛躍するが、何よりもまず大事なのは自分だ。自分がしっかりしていなくて、余裕がなければ、誰も幸せになどできやしないから。だから、人に迷惑をかけずに、まずは自分さえ救えればそれでいい。この第三段落はなんだ、自分の特徴を自慢しただけか。

 笑うことは、悪い方に流れていく自分に方向修正をしてくれるものかもしれない。進むべき道を指南してくれないまでも、少なくとも、沈みそうな顔を上にあげてくれる。だからこれからも自分はたくさん笑うことを心がけるだろうし、ひとりのときでも大丈夫なように蓄え集めに奔走するだろう。それらはきっとマニアックなものばかりだけど、もし何かの間違いでそれを誰かと共有できようものなら、その人とは一気に仲良くなれるだろう。マニアックなものほどそうなのだ。そんなたのしい特典まであるのならばいっそうやめられない。「思い出し笑い好き」は、なにも奇妙なものではない。