4月14日(火)
見たり聞いたり触ったりして「おもしろい」と思うもの、そのほとんど全部は誰かが一生懸命汗をかいて作ったものだ。底抜けにおもしろいものでも、それを作っている過程も同じように底抜けにおもしろいものであり続けたわけではなく、おもしろいものに限らず、もっと広く「すごいもの」を作りあげる過程というのは絶対にそれ相応のしんどさがある。長い間陽の当たらないような地面の中で耐えて耐えて、そしてようやく完成と同時に地上に飛び出す。場合によっては地上に出てきてもしばらくは見向きもされないことだってあり得る。それでも地上に出られたという快感、そのあとについてくる太陽の気持ちよさ、照らされている自分の姿なんかがたまらなく、また地中に潜っては辛い辛い時間を過ごそうとするのだろう。
でも一方的にそんな役回りを担うだけの人なんておらず、その人だってまた他の誰かの作り上げたものにおもしろいと思ったり、感動したり、励まされたり、そういったものがいろんな人の間でたくさん、いくつも繰り広げられて世界は回っている。ひとりだけがしんどいことをしているわけではない。でも逆に、みんなが少しずつしんどいことをしなくてはいけないということ。
「世の中に貢献しないと……」という馴染みのある言い回しがあるが、そんな包括的丸出し曖昧模糊な言い回しは好まず、自分の言葉で言えば、人を刺激しないと生きている意味がないという風に思える。「生きている意味がない」とは少々過ぎた表現かもしれないが、それほど強く、人を刺激するということは大きなものだと思っている。これは、お金を生み出さないといけないなどというような、目に見える効果を出さないといけないというものではなく、例えば、なんでもいい、たのしい話をして人を笑わせて元気にする。それが仕事のすばらしい職業だってあるけれど、仕事でなくとも、それをすることによって人を少しでも元気にできたり、次回までがんばろうと思わせられたりするような、つまり刺激を与えることがとっても大事なことなのではないかと考える。もちろん生きていく上ではお金やごはんが必要で、それを確保できないことには何もできないのだが、それは恵まれたこの国では求めればさほど難しいことではないだろう。これはそのあとの話。最低限のことの話なんか誰が言っても同じようなものになるだろうから。
刺激を受けたい。圧倒的なものでも、僅差のものでも、とにかく「すごい」と思わせられたい。負けず嫌いだから、そんなときはなかなか辛い気持ちになるけれど、それでもやっぱり「刺激を受けた」という気持ちの方が大きく、それがそこからの自分の原動力になる。世界では、刺激はぐるぐる飛び回っていて、それを自分が手を伸ばして捕まえる。誰かが作り出して世に放った刺激は、世の中から受け取ったようなもの。それを、受け取り続けているだけというのは誰も許してはくれないこと。自分も、世の中に刺激を放つようにならなくてはならない。形はなんでもいい。自分の形で世界を回せばいい。