すべてつながれ。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 4月6日(月)

 ひとつのことをやることは、そのひとつのことだけに効果があるわけではなく、他のことにも思わぬ形でつながるものだということを、遅まきながら実感している。直近のブログの登場回数ナンバー1の、ジョギング。これをしていて最も印象的な発見は、靴を履く段階では気分は少しも乗っておらず、はじめの方でもひたすらしんどくて、しばらく走っているとしんどさは時間と共に蓄積されてきて、半分を過ぎるあたりだろうか、つらさがピークに達し、「もう歩こうかな」と毎回思う。だけど、そこがいちばん重要な分岐点なのだ。そこを我慢して乗り越えると、すぐあとに嘘みたいにすっと足取りも心も軽くなり、それからはただたのしいだけになる。このままどこまでも走れそうな気分にさえなる。一方で、そのときに――何度か経験があるのだが、我慢できずに歩いてしまうと、走る苦しみからは確かに解放されるが、体全体をずっしりとした重みに襲われ、何よりちっともたのしくない。「何ごとも、つらくてやめたくなったときこそ我慢して乗り越えられれば、わりとすぐに気分が楽になる、たのしくなる」という、持ち前の楽観的な締まりのない広い解釈ができたことは、夜道で拾った小さな発見だった。

 そして、こちらはもう自分の中で言わずと知れた週末のたのしみ「ビリヤード」。この競技は、とにかく精神力が物を言う。対戦していて、どれだけ悪い状況になろうとも、動揺せずに平常心を保つことが必要になる。そしてなによりも、集中力。これが切れるともうおしまいで、そんな状況で打っても数ある穴のどれにも球は落ちてくれなくなる。やりはじめてから早3ヶ月が経ったが、今では一応、4時間くらいはぶっ通しでやっても気を張った状態を維持できるほどに成長した。間違いなく集中力はついた。次は一旦切れた集中をもう一度復活させられるようにしないといけないのだが。

 今回で言えば、前述の「苦労を我慢して越えればたのしくなるという発見」と、新たに培った「集中力」のふたつが舞台を変えて同時に顔を出してくれた。今回の舞台は、勉強。それも、静かで落ち着く自室ではなく、おしゃべりが主役の公共のカフェで。

 もともと勉強は決して嫌いではないのだが、高校までの自分は、どちらかと言えば長時間がりがり机にかじりついているタイプではなく、短時間要領よくやってほとんど休憩しているというタイプの学生だった。大学ではどうだったか……、正直わからない。恥ずかしい話、机にはよく向かっていたが勉強をした記憶が本当にほとんどないから。とにかく自分は、集中力が試されるような機会がこれまでほとんどなかったのだ。だからどれほどの集中力を持ち合わせているのか定かではなく、おそらくあまりないような気がする。そして今日、久々に勉強でもしてみるかと全然おもしろくもない本を開いてみたところ、はじめは新鮮な気分ゆえにたのしんで、そして集中してやれていたが、1時間もすればもう飽きてきはじめ、とっくになくなったコーヒーの紙コップを無意味に何度も傾けたり、隣の女子の会話に聞き耳を立てたりしはじめた。集中力はもう首の皮一枚でつながっているような状態。慣れない勉強はやはりしんどく、もうやめようかと思いはじめた。それでも、先のあの「発見」が頭をよぎり、もう少しやってみるかと気分を改め、ついでにBGMをクラシックに変え、切れそうな集中力の糸をたどってよじのぼると、それからあと1時間ほど、なんとか復活でき、集中して黙々と取り組むことができた。やはりしんどかったのはあのときがピークで、峠を越えればたのしさだって感じられたのだ。

 こんなサクセス話は最初だけだというのは分かっている。二回目は、三回目は、こんな具合にはいってくれないかもしれない。まあ、それもいい。現有の「『発見』の信仰心」と、「集中力」がどれほどのものかを測れるから。

 我ながら、楽観的な人間だ。



追伸 今日は文章校正がひとつもされていないのは、ミスターのただの気まぐれなのか?