左折記念日に思う。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 3月30日(月)

 ひとつ解決したとたんにまた別の問題が発生して、それが解決されるともう次のものが芽を出している。なんの話だ。国同士の関係や政治、経済はもちろん、中年の人ならばそれは体の痛みかもしれないし、おんぼろの原付きを乗っている人ならばそれだし、まあ人それぞれにこういうのは必ずある。ちなみに、左折禁止の原付きだが、バイク屋さんに持っていったところ、ものの5分ほど、415円でばっちり解決した。なんてことはない、左ウィンカーの電球が切れていただけだそうだ。唯一の治療薬と勝手に信じ込んでいたガソリン補給はなんの因果もないものだったそうだ。ひとつ名誉のために言えば、うすうすそんなことは分かっていた。これに関しては熟考するのを敬遠していただけだ。なぜなら、ほんの少しでも真面目に考えるとすぐに無関係なことくらい分かるから。言葉界で、力の源という位置にいる「ガソリン」には、少なくとも繋がっているすべてのものを動かす力があってほしいという願いがあって、それが覆ることへの恐れからの敬遠だ。夢のあるお話だと解釈してもらえればそれでいい。

 そして、妙に左ウィンカーだけやけに眩しい原付きにまたがって走りだすと、早速次なる問題が顔を出す。抗いようのない老朽化だ。自分の原付きが不調の数日間、原付きで中距離の外出の用事があるときは、家族の原付きを借りていた(うちには都合3台の原付きがある)。他の2台は、ボクのと比べるとだいぶ新しい方。そもそもボクのよりもおんぼろの原付きはちょっと探したところでなかなか無さそうだ。その、借りた原付きにまたがりグリップを少し握ると、驚くような加速をした。まともな走行速度に達するまでの時間がどえらく短い。時速30キロがこれほど速いのかと衝撃的だった。そこではじめて気づいた。ボクのはもうあらゆる箇所がバカになっていて、実際のスピードと速度計が指すスピードが一致していなかった。原動機が速度計についていけなくなっているのだ。かと言って、速度計が優秀だということではなく、それだって時々動くことを忘れることがある。まともな走行速度にもなかなか達しないし。周りの原付きが駿馬なのではなく、自分のがただのおんぼろ駄馬なのだと気づいてしまった。ただ、本件は、宿命でもある老朽。寄る年波にはどうやっても勝てず、そのものを代える以外には解決策はないのが残念なところ。

 この話を主に書きたかったわけではないのに、ずいぶんと長く、そしてたのしんで書いてしまった。要するに、人は絶えず何か悩み・問題を抱えている生き物なのだ。悩みもストレスもない人なんていやしない。みんな同じように不安を抱え、悩み、苦しんでいる。それを、かりそめにも自分だけが不幸なのではと感じる人がいる。――ボクのことだ。人間とは小宇宙で、人によって時には災難が続くことだってあるだろうけど、みんな最低ひとつくらいは常に災難を抱えているのは同じだ。うらやましいと思うような誰かになりかわったとしても、考え方まで変われない限り、またいちいち問題にぶち当たる度に滅入ってしまうだろう。

 問題は次々と切れ目なく降りかかってくるもの、そしてそれは生きている以上は誰にとっても平等。つまり不可抗力で、仕方がないものなのだから、そういうものとして前を向いていくしかない。おもしろがれるようにでもなれれば、怖いものはなくなるのではないか。人生なんていうのは、おもしろがれる人のためのものなのかもしれない。