夜は暗く星は明るく、そして流れる。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 3月18日(水)

 それは昨晩遅く、昨日と今日の狭間に起こった。最近特に夜中のジョギングがたのしく、ここのところはほぼ毎日繰り出している。例え晩ご飯を食べる時間が遅く、走るとわき腹が痛くなることがわかっていても、とりあえず外に出て、痛くなったらとぼとぼ歩く。でも我慢して走っていると次第に痛みを上手く飼いならすことができるようになり、そういうときはそういうときの走り方があることがわかった。なかなかおもしろいものだ。

 最後はいつも少し歩くようにしている。クールダウンの意味も兼ねて、清清(すがすが)しい夜を精いっぱい満喫する。マイブームの星空ウォッチングもたいていこの時間だ。

 そして昨夜も一通り走り終え、火照った体を夜風にさらしながら春めいてきた星空を眺めつつ、えっちらおっちら家を目指して歩いていたときだ。分厚い布のような濃紺の夜空を切り裂く一筋の光を見た。流れ星だ。あまりに鮮明だった。その色は赤にも青にも、黄色にも見えた。そのときは確かにipodから流れる音楽をイヤフォン越しに聞いていたはずなのに、瞬間すべての音が消えたように感じられた。自分の足音など聞こえない。ただそれは動けなくなってしまったからだ。あの瞬間は自分の耳からは、遠くの国道を走る車の音やどこかで犬が吠える声、自分の呼吸・心音さえもなくなっていたのではなかろうか。「瞬間」と言っているが、それはいわゆる刹那ではない。長く引いていた尾が完全に消えるまでを含むと、決して一瞬とは呼べないほどの長い瞬間。よく「星が流れている間にお願い事が言えたらそれは叶う」という話題がのぼると「でも実際そんなのできっこない」が必ずと言って良いほど後に続くものだが、昨夜の流れ星はそれを可能にしてくれるような、極めて稀有なものだったのかもしれない。流れ星なんて見慣れているものではなく、見つけたときはいつだって新鮮で、上手く気持ちの高ぶりを抑制できないものだが、件の流れ星は、気持ちを落ち着ける時間を差し引いても、願い事を言いきれそうな時間姿を現してくれていたのだ。もっとも自分は、「願い事言ったら言えてしまうのではないか」ということばかり考えてしまい、絶好のチャンスをみすみすふいにしてしまったのだが。

 夜空はすごい。あれほど見事に星が流れたというのに、ほんの数秒後にはもう、何事もなかったかのようないつもの夜空に戻ってしまう。傷跡なんて何も残っていない。見た人以外は信じることなどできないだろう。ボクは見た。見てしまったという方がいいのか。完全に消え去ってからだ。突然心臓はものすごい速さで鼓動し、全身は震えていた。耳には家を出たときから絶えることなく音楽がしっかり鳴り続いていたのだが、何かが怖くなって止めた。走ってきたばかりで足はがくがくだったけど、やっぱり怖かったから家まで走った。圧倒的なものを見たという実感は、人ひとり簡単に飲み込むほどの力がある。家に帰り着いてもしばらく、動悸と震えは止まなかった。

 はるか昔の人は流星群を見たら、どこか地球の遠いところで大火事が起こると言って恐れたそうだ。当時は今よりももっと夜空は暗かっただろう。ならば流れる星というのはものすごく印象的な光景だったと思われる。科学が発達していなかったというのはもちろんだろうが、夜空、そして夜がしっかり暗いというだけで、たくさんたくさんドラマが生まれたことだろう。

 しかし昨夜の流れ星は強烈だった。夢のある人間でいたいからあれは絶対に流れ星だったと信じる。あの出来事を伝えたい。見たまんまを人に話すことができたらどれだけたのしいか。でもきっと信じてもらえないだろう。誰か、見た人いないの。