若いころの人間の悩みの大半は「選んでもらえないかもしれない恐怖」で占められていると思っていて、学生さんたちと多く話をする機会が増えた私からしますと就活であれ受験であれ結婚であれ自分の正確な評価が良く分からない中で選ばれない恐怖と戦うことを強いられます。自分の人生を振り返っても、いまの悩みは自分の健康や子育て・介護のことばかりな割に、上手く選んでもらえる工夫をどうするかで腐心した時期もあったのを思い出します。

 

 ボランティアで被災地に行く子たちも、困っている人を助けたくて居ても立ってもいられないというよりは、自分に役に立てるのか、自分とは何なのかを考えた結果が「ボランティアとして被災地に行く」という行動に答えを見出そうとしているようにも見受けられます。もちろんある種の若き悩みの果てに自分が社会にどう役立てられるのかを模索するのは決して悪いことではないし、それが就職に有利そうだとか、期末試験やレポート提出の締め切り猶予の口実として被災地に寄り添いたいという理由をつけたくなるのも人情としては分かります。

 

 ただここ最近、そういうのに共感しすぎて自分自身が不安になり、若い命を絶ってしまうケースが立て続けに出て困惑しています。一昨日迄元気だったのに。週にそう何時間も一緒にいない私でさえ驚いて悲しい気分になるのだから、ずっと勉学で一緒にやってきた子たちのショックは計り知れなくて、何で気づいてあげられなかったのかとか、相談してくれなかったのかと自分を責める気持ちを持ってしまうのも分からないでもありません。

 

 また、某業界でも商習慣の根本を揺るがす物故もありました。まあこちらは周辺の誤解も広がり思ってもみなかったナラティブが広がってしまって「そういう話じゃないんだがなあ」と気の毒に思いつつも首をかしげることになります。ですけど、状況を知っている人であるほど、これは外で喋れないなってみんな思うわけですよ。義憤に駆られて噴き上がっている人たちの前で「こういうことなんですけど」とあけすけに書くこと自体が人としてマズいと思う関係者ほど、名乗り出たり事情を説明したりすることはいまは控えておこうとならざるを得ません。何と悲劇的なことか、と思いますが、親しかった友人や迷惑をかけられた面々が誰一人として自分事としてこの事件を外で語らないということで察して欲しいと思います。

 

 これだって、自分の行く末、キャリアと健康の問題が、ある種の一過的な絶望に至ったことは間違いないので、自分で自分を不安にしてしまって、自分には価値が無いのだと恐怖を抱き命を絶ってしまった面はあるんじゃないかと思います。どうであれ、そのような決断をし、行動に移してしまった時点で、という気もしますし、不謹慎ながら順番守れよなとジジイ的には嘆きながらも受け入れて生きていくしかないのだな、と。

 

 一般論として、選ばれない恐怖が存在意義を揺るがし、絶望を感じ、生きる意欲を失わせるというのは非常に厳しいなと思うわけですよ。誰かに勝手に「あなたの人生、こうでしょう」と押し付けられているわけでもない面もありますから、生きる理由は自分で探すのは当然だし、選ばられるように、努力して自分を磨くしかない面もどうしてもあります。

 

 そして、所詮は他人事ではありつつも、あなたの生き方はそうじゃないでしょうとちゃんと言ってくれる人を、周りにどれだけ作れているのかが勝負な面はあるのでしょう。が、やっぱり亡くなり方を見ていると拭い難い孤独感みたいなものも抱えていたように聞くケースが多いので、なんかこう、そうならないようにできる仕組みができないもんかなと毎回自問自答します。

 

 もうかなり前のことですが、明るく快活だった子が大学で留年したことで下の年齢のクラスと一緒になったことで精神的に孤独感を持つようになり自殺未遂をしてしまったあと、リハビリの果てに半年後に復学したとき別人のような顔つきになって面談に来たのを思い出します。仕事柄、いろんな方とお会いすることが多いのですが、人間という存在の奥深さとデリケートさみたいなものを痛感しましたね。

 

 私自身もよく「タフだなあ」と言われ、気がついてみればこのような仕事に従事している同年代はほとんど死滅してしまいましたが、裏を返すと私だってトラブル一発で助からない側に回ることも容易に想像がつくわけでして、やはり日々を目いっぱい生きるしかないんじゃないか、笑って過ごすのが一番じゃないかという基本に立ち返るのでした。

 

 画像はAIが考えた『明るく楽しく過ごしている日々は、切り立った崖の上に成り立っていることに気づかない』構造です。