他できちんとした論考にまとめる依頼があり、まだ請けるかどうか決めてない本件ですけど、『文學界』と文春オンライン掲載版は著者校正のタイムラグから表現が一部異なっています。すでに荻上チキさんが指摘済みですが、校正後のほうが触れるには正しかろうということで、文春オンラインのリンクだけ先に貼っておきます。

落合陽一×古市憲寿「平成の次」を語る #1「『平成』が終わり『魔法元年』が始まる」 #落合陽一 #古市憲寿 #文学界 http://bunshun.jp/articles/-/10178

 論点が幾つかあるんですが、個人的には「そこまで燃えるほどの内容なのかな」という感じはしました。落合さんもフォローアップ的に釈明のnoteを掲載していましたが、古市さんも落合さんも福祉・介護を当人の価値と治療のコストにおいて国家財政や社会的負担の観点から述べるのみで、たいした知識がないことは明確です。

 ただ、高齢化が進展する中で、高齢者を扶助するコストを国庫で賄えなくなる、天引きとなる社会保険料が実質的な重税となって次の世代の負担になっている、財政が硬直化し社会保障費が増えれば未来への投資(出生率向上や教育投資、科研費などの研究開発費)が細っていくので先が暗くなる、ということへの処方箋として、高齢者のQOLを引き上げ、それを実現するテクノロジーを実現していくことで乗り越える、というのが落合さんの主張であるという風に読みます。

 また、問題の端緒となり、批判の矛先になった古市さんの「財務省の友人」との勉強会で出た「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の1カ月」というガセネタについては、財務省の社会保障関連チームはそれこそ1990年から継続的に国民一人当たりの年代別・疾病別医療費の現状についての研究をやっているわけで、おそらくは大した勉強会をしていなかったか、自分の意見を補強するために財務省の友人を持ち出してきて演出しただけじゃないかと思います。

 高齢者・長期闘病者をお金で仕分ける問題の是非については、厚生労働省も調査や研究を重ねているもので、問題提起という観点以外で、古市×落合対談で新しい知見があるとは思えないので、ごく単純に古市さんや落合さんの問題意識を改めて提示したモノってことじゃないかと思うわけです。

患者をお金で仕分ける“人の命の線引き”。後期高齢者の負担を引き上げ、高額医療に保険をきかせず…で、国民“皆”保険制度と言えるのだろうか https://www.minnanokaigo.com/news/yamamoto/lesson26/

 しかしながら、落合さんも釈明されていますが高齢者の終末医療を高コストであると論じたうえで、それが国家財政を圧迫している(だから削減するべき)という流れで話が進んでいったのは、単純にガセネタベースの与太話というよりは、長谷川豊さんの「人工透析患者は死ね」という暴言にも直結するような内容にも見られますし、Twitterでも多数指摘されたように「優生学にも近しい」という批判も出ることはまあしょうがないのかなと思います。

 社会保障の制度や研究をしてきた中では、一般的に高齢者の医療費だけの問題というよりは、そういう闘病中の高齢者を支える家族・勤労世代の家庭的負担、独居老人に対する地域包括ケアに対する社会的負担のほうが大きく、介護離職や高齢者の集住化などの幅広い政策にリンクしていきます。

 さらに、それを支える医療体制として、対談でも出ているような日本医師会ほか団体の意見と厚生労働省(と元厚労大臣の塩崎恭久さんなど)の議論だけでなく、ブラック体質が常態化している医師や歯科医師、看護師などなどの医療関係者の働き方問題、さらには医学部定員問題、地方の医療を誰が支えるのかという医師偏在の問題といった、政策上のトリレンマを持つ部分です。これらはテクノロジーとはほぼ無縁の世界で、例えば遠隔医療が実現しましたといってもベッド数のやりくりやかかりつけ医制度への転換といった構造的な問題のほうが大きすぎて、技術革新によって改善するQOLよりもかかるコストのほうが圧倒的に高いので話が進まないという点は当然に指摘されるべきじゃないかと思います。

 たいていここで霞が関批判になるはずなのですが、そういう話に一切触れられませんでした。何か理由があるんでしょうか。

 そして、高齢者のために技術革新をしてQOLを高めるという話は夢も希望もあるので可能なら是非にという風に私も思うわけですけれども、ここでも立ちはだかるのはコストの問題です。治療費においてはすでにオプジーボ(小野薬品工業)などの高額治療薬によってがん患者が助かるよねって話が出るわけなんですが、これらの高額治療費については患者負担は一定の安い金額に抑えられ、費用はほとんど公共の社会保障費が丸抱えすることになります。上記の「命に値段をつけるな」と「そうはいっても社会保障費が」という折り合いをどうつけるのかこそが「思想」であり、古市さんも落合さんもこのあたりの核心には触れているようで触れておらず、はっきりしません。隔靴掻痒な対談だなあと思える部分は、誰に配慮しているのか分からないけど歯切れが悪すぎて、絵空事でしか現段階ではないテクノロジーでQOLを高めましょう(ただしコスト面は誰が負担するのかはっきりしない)という緩い内容になっているのが気になるわけであります。

 これらはいずれも1990年代から社会保障論としては語られ続けてきたことであって、古市さんや落合さんはそのあたりの専門的な議論のフォローアップなしに社会時評として「平成の次」というテーマで高齢者問題を取り上げ対談しているわけですから、イデオロギー論争に踏み入れる一歩手前でお茶を濁すようにバラ色っぽい技術論・科学による救済というテーゼを示したということです。

 上記取りこぼしている問題でなお大きいのは、介護業界が非常な低賃金で重労働を強いられる状況に陥ってしまっていて改善の可能性はほぼなく絶望的なこと、また介護人材の不足に直面してもっぱら外国人を増やすことで対応をしようという国の乱暴な政策が発動して訳が分からなくなりそうなことなどは特筆されるべきだと思います。そして、高齢者は単に年取ってるだけじゃなく、家族がおり、愛する人がおり… そういう人たちへの負担をどう軽減していくのか。さらに今後爆発的に増える独居老人の介護問題あたりは、本当の意味で「平成の次」の主たるテーマとして語っていくべきもので、そしてそれはいまの私の世代とちょい上から、どーんと顕在化していくものです。ヤバイ。だからこそ、古市さん、落合さんという新しい年代の英俊が綺麗事を抜きにして「思想」や「哲学」を明示して先導していくべき物事だと思っていたのですが、残念ながら、どうとでも取れるような内容で対談が進んでしまったのはすっきりしません。

 でまあ、落合陽一さんの本を読み、noteも目を通している私からしますと、落合さんの前向きであるが故の気持ちと論旨のズレが気になります。

 落合さんは「士農工商の考え方である『ものをつくる』農民や職人たちの方が商人たちよりもえらいという考え方を取り戻すべき」と著書の中でメインテーマとして述べ、東洋的なある程度の身分制度を軸に据えたらどうやねんという話をされています。

落合陽一は日本のムダとムラを壊す救世主猪瀬直樹がみる「魔法使い」の実力
http://president.jp/articles/-/26795

 ところが、古市さんとの対談の中では「汗をかかなくてもお金が儲かるようにならないと駄目」とかなってて、すでに現代では否定されている身分制度である士農工商において農と工は汗をかかなくては儲からない身分であることをすっ飛ばして論じているわけです。

 おそらくは、パッチワーク的な思考を積み重ねて「落合陽一的世界観」を構築し、いろんな人との交流の中で固めていっている最中なのだと思いますが、前述の社会保障論であれ、一連の身分制度への論及であれ、介護に直面している人や身分制度が社会に染み付いている国や地域に対する考察が不足しているように感じます。

 もちろん、当事者として感じる社会保障と数字で見る現状とでは掴み取り方も異なるでしょうし、古市さん、落合さんには大人の事情を抜きにしていろいろと話し合っていってほしいです。

 蛇足ながら、最後に考察の不足で言うならば、古市さんの「荒野行動」の元ネタになった「PLAYERUNKNOWN’SBATTLEGROUNDS」への言及をするのであれば、多くのプレイヤーを賑わわせているEpic Gamesの「FORTNITE」をしっかりと論じるべきだと思いました。

 やっぱこう、猪瀬直樹さんっていうのは新世代のデスノートなんじゃないかと強く感じたひとときでした。


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