今年上期で契約期間が満了した福島県の経済復興・支援事業の仕事が終わって、先日総括の会合がありました。普通、仕事が終わって、さあ次は何をしようかと前向きな気分になることが多いはずなんですが、今回のケースで言えば、お通夜とまでは言いませんが、あんまりみんなこの仕事をやっていこう、続けていこうという気持ちにはなれないみたいで、話として果たした責任の内容や苦労話よりは、年始に解散はあるのかとか、カジノはどうなるのかといった、別の次元の話題を敢えてしていたのが印象的でした。

 仕事の委細を書くわけにはいかないので、雑記調に「私が何を考えているのか」をまとめておこうと思うわけなんですが。

 もちろん、被災地だけでなくいわれなき風評被害を被った福島の方々に対しては、なにかもっと抜本的な方法でご一緒できたんじゃないかとか、このような話で本当に被災前の状態にできるんだろうか、他にやり様はあったんじゃないかといった忸怩たるところはあります。例えば、本当に地震やそれに続く福島第一原発事故の影響で、建屋が壊れて操業できない工場や、陥没した道路といったものは、ハードウェアですから、お金が突っ込まれればそれなりに直って、元通り以上に機能させることはできます。

 しかしながら、そこで働く人がいない、作っても地元でモノが売れない、なぜならば消費者としての県民が避難して県外に出て行ったまま帰ってこないから、という現状は「復興」でも「復旧」でもありません。さらには、県外に出ていく人は労働者、お勤めとして立派に働ける人です。福島に残るのは子育ても仕事のキャリアも終えた年金生活者か地方公務員の塊である、みたいな現状ですと、事業所を修復しても働き手がいないという状況に陥るのは当たり前です。リタイアした日本人は救わなくていいのか、という議論をするつもりはないのですが、その救う原資は税金であって、生産性のないところに突っ込む税金は将来の税収に繋がらないという意味でどぶに捨てるのと同義であるのも事実です。

「社会保障」「地方再生」失敗の轍を抜けるには http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/275866/121200011/

  夢のある復興とは、みたいな話は地方再生の「賢人会議」に呼んでいただいたときにも少し語りましたが、結局は「限りあるリソースをどう有望な分野にきちんと振り分けていくか」という選択をするべき政治と、「みんなのリソースなのだからなるだけ平等に、納得感のあるように分配していくか」という政治との衝突であるわけです。

 例えば、南会津町はいま巷で話題になっている医師偏在問題の象徴とされる地域で、それなりに山間の土地に1万6,000人が暮らしていて若年率が10%ぐらいという典型的な過疎なのですが、ものすごい勢いで人口が減少していっています。まさに秘境ともいうべき地域ですが、ここには産婦人科が一人もいません。10年前が2万人の街でしたから、ざっくり10年で2割人が減ったということで、何しろ20歳ごろになると世代人口が半分になるのですからどうしようもありません。

 地方再生の問題は、仕事の問題、教育の問題、育児の問題も孕みます。仕事が無ければ家族を養えず土地を離れるしかありませんし、良い教育を受けられなければ安い賃金の働き場で妥協せざるを得ず、育児のサポートが無ければ複数の子供を儲けることができないので、地域の人口が減り、労働者の流出を呼び、地方再生は不可能になるのです。

 「人口減少社会を悲観的に見るな」 という言動は多いのですが、現場を見ると「人口が減ったため、明らかに成り立たない地域がある」という現実を見ます。そこに、ある種の「復興は可能だ」と中央の人たちが頑張って予算を取ってきてくれるところまではいいのですが、自分で立ち上がれない、自律した経済圏を構築できない地域の人たちに対して、億単位、十億単位の予算がついて立派な道路整備されたり改修された工場が建っても地方経済が動きません。むしろ、イニシャルで初期費用をどーんとかけて地元活性化予算が消化されても、その何倍もの維持費が賄えるほどに採算が合わず、負担が増えて過疎化が進展するという本末転倒があります。

 理想としては、繁栄する福島を取り戻したい、そのために何ができるか、を考えたいわけです。

 しかしながら、現実に起きることはもう二度と帰ってくることのない地元民のために有効かどうか分からない除染作業が「とりあえず」行われ、子供が減っているのに学校が増築されている割に教師が減員しているとか、平均就労年齢が60代の喫水の浅い漁港が全部整備され直してるけど船の出入りがほとんどないなぜならみんな補償金もらって毎日漁に出る必要はいまはないから、といった状態です。

 これは福島に暮らしている人たちが駄目なのではなくて、福島にどういう活気を取り戻し、何を収益の根幹として、福島にどう稼げる地域として復活してもらうのか、そこにどういう仕事を増やし、家庭を養い、子供を教育し、大きく地域経済を育てていこうかというビジョンの欠如もあるんだろうと思います。それは、福島県民だけが考えることではなくて、高齢化社会のモデルケースとして何を考えるべきかや、少ないリソース、子供や若者たちにどういう社会を理想として行くかでしょう。

 みなさん、口々に「林業には未来がない」とか「若者は山を愛さなくなった」などと仰るわけです。確かに、昔ながらの林業を細々とやっていくだけでは、なかなか明るい将来展望がないかもしれません。なのに、なぜ彼らは林業を続けているのかと言えば、林業が廃れて所得が細っても年金と併せて暮らしていけるだけの収入があるからという面もあります。林業でどうやって食っていくかという方向に知恵が回らないのは、農業や漁業も同様にどうにかなっちゃっているからです。

 なので、地方経済の現状を見てしまうと、どうしても日本の労働生産性とセットで考えるべきなんだろうなと思うわけです。日本の衰退の最前線であり、税金も社会保障費もすべてこういうもう戻れないところに資金を突っ込んでいるから重税感や日本死ねが起きるんだということでもあります。

 なんだ、解決策ないじゃないか、とよく言われるんですが、これはあるんです。単純な話、採算の取れない地域にお金を突っ込まないだけで、ざっと試算するだけでも年間の歳出ベースで8兆円、9兆円といった資金が合理化できる余地があります。しかしながら、山を愛するお爺ちゃんたちに、人間の情として「ごめんな、具合悪くなっても救急車出せなくなるし、林道も整備しないから。ドカ雪降っても除雪いかないからね」というのは文字通り「貧乏だから爺さん死んでくれ」という処刑通告みたいなものになってしまいます。

 いまの日本の地方経済をみえていると、経営の傾いた大企業が、過去の栄光を引きずって不採算事業をリストラできず、全体が沈没していっているのと大して変わりません。企業経営であれば「リストラしろよ無能経営者め」と罵声を投げかければそれですみますが、政治はそうはいかないのです。だから、痛みを伴う政策を政権も霞が関も早期にやらなければいけない。

 利己的に私自身が生きようと思うならば、まあ死んでいく地域はしょうがないよね、誰かがどうにかするんでしょう、で終わる話なんですけど… やっぱり誰も管理しなくなった蔵に置いてある誇り被ったお神輿が丁寧に飾り付けられてるのを見ると、 この地で生まれ、この地を愛した人たちが日々を暮らし、息づいていた時代を感じて懊悩するわけですよ。それが摂理なんでしょうけれども、あれだけの事故を起こしても変われなかった日本社会が自発的に何かを切り替えられるとしたら、どういう方法があるのでしょうか。