先日、ヤフーニュースでこんな記事が載っていたのでコメントを寄せました。

 消える人 もがく地方… 3000円散髪に1万5000円のタクシー代
山本一郎さんのオーサーコメント

 記事は産経新聞のものですが、特に思想がかったものではなく、単純に人口減少が地方で深刻になり、自活できる都市圏にまででかけないと過疎地域の人たちは一般的なサービスを受けられなくなっている、という話です。

 単純に、人が減っているし、人が減った地域でサービスを賄うのは採算が合わなくなったから、無い袖は触れないので都市圏に移動するしか文明的な生活をするには方法が無いんじゃないですか、という保守主義的で「現実を見よう」という発言をしたんですよ。

 私は保守主義者ですし、人がいないんだからしょうがないだろ、人がいるところで文化的で健康的な生活ができたほうが、生まれ育ったからといって不便なところで暮らすよりいいんじゃないの、という考えなわけです。

 そしたらですね、幾つか左方面の皆さんから、とても批判的なコメントをいただきました。主に、メールやFACEBOOKなどでですが。

 掻い摘んで共通した内容を整理すると、こんな感じです。

・人間は、生まれ育った地域で暮らす権利がある。

・国家や社会は、そういう人たちにも文化的で不便の無い暮らしを実現する責任があるのではないか。

・文化的な生活を地方在住者が送れないという不利があるならば、助成するなどして、彼らが都市部で住んでいるのと変わらないクオリティを目指すべきだ。

・村から町へ年寄りを寄せることは、人口問題を先送りするだけで解決にならない。

・高齢者を都市部に移住? できるならやってみろ。

 まあ、意見として「理解はできる」けど「賛同はしない」わけですね。

 私としては、保守と左翼で意見を出し合い、お互い納得はしないんだろうけど折り合えるところを探して、社会があるべきところに着地するのが政策論争だと思っております。なので、賛同はしないまでも、理解はしますし、 逆に不便なところに自発的に住んでる人を支えるコストを誰が払うのかも考えてよ左翼のみんな! みたいな気持ちにはなりますね。まあ、山の両側から頂上目指して登っているイメージでしょうか。

 そうこうしているうちに、青森市のコンパクトシティ失敗事案が出たり、興味深い事案はありました。

「コンパクトシティ政策」のトップランナー青森市の自滅

 個人的には、公共サービスのコストを効率化するにはコンパクトシティ的な方法でしか解決できない、人がまばらな地域はその人が不便さを許容され、衰退を余儀なくされてもなお土地にしがみつきたいということであればどうぞ、という話になっちゃうので、それはそれで冷たい話だと思うんですけどね。伴侶を見つけたくても若い人が少ない、結婚できて子供が産みたくても産む場所がない、子供は風邪を引くし怪我もするし近くに小児科のあるところでないと何かと不便だ、っていう意味で育てづらいだろうし、出生率もそこまで上がらない。

 高齢者だって、産経の記事にもあるとおり散髪したくてもタクシー代のほうが高いとか、病院いきたくても近くにないだとか、何事かあったときに救急車が来るのに40分とか。死ぬでしょ。高齢者の貧困だといっても、その高齢者の選択の果てに、生活費が高くなって困窮するしかない地域に住んでいたら、そりゃ貧困になるだろとしか言えない。

 民主主義社会だし、住民の権利だと言われると、まあそりゃそうです。ご自由に。ただ、日本社会全体がお金の余裕が無くなって、人口も減って、地方津々浦々にサービスを行き渡らせられるような非効率を社会的合意で甘受できなくなりつつあるとき、あるタイミングで一気に梯子を外さないといけなくなるでしょう。なぜなら、非効率に暮らしている人々のお陰で、自活的な経済圏にいる人たちの納める税金が無駄に使われる余裕はなくなるだろうから。

 それじゃ都市部以外に人が住んではいけないのか、という話になるとむつかしいんでしょう。”村閉め”じゃないけど、若い人がいない、子供が産まれない、先が無い地域はてこ入れしようが本人たちが頑張ろうがそう遠くない将来地域は無くなるんですよ。社会や地域を持続させることができるのは、次の世代を生み出す能力に尽きるわけです。

 だからこそ、個人の選択として「採算の取れない地方に住む」というのは、公共も民間もサービスレベルが下がるという前提で暮らしてもらわないといけないってことだと思うわけです。

 私なんかは、社会で賄えるこづかいが減っているんだから自分で稼ぐか我慢するしかないと思うほうだけど、左の人たちはそういう人たちが困っているのだからこづかいを配るべきって話になるようです。まあ、心情的には分かるんだけどさ。

 ついでと言っては何ですが、千葉市長の熊谷俊人さんが「市政サービスの見える化」という話をされていて、私は賛成です。お前らの払っている税金に比べて、どれだけ受益をしているのか、要求する市民サービスのコストに見合う付加価値をお前は生み出しているのか、という議論は、国民の権利と主張するのと同じぐらい必要なことだと思っています。

 もちろん、私自身もそれ相応の税金を支払っているとはいえ、もしも何事かあったら市民サービスのありがたみを痛感する日々を迎えることになるかもしれないわけです。だからこそ、ゴミ収集から介護やら保育園・幼稚園など、あらゆる分野で行政がかけているコストを国民が目で見て、払っている税金などの負担と見比べて「ああ、私は社会にきちんとプラスの貢献をしているんだ」と自負できるかどうかは考えた方が良いと思うんですよね。



 逆に、貧困で辛いという人たちも卑下する必要はないと思うんですよ。この世に日本で生まれたからには、いいたいこと、して欲しいことを堂々と主張しても良い。それが社会の富が喪失して、そちらにまでお金が回せないぞとなったとき、どうにかして助け合わなければならないのが社会であるわけだし。

 意外とこの辺の行政サービスのコストと国民のサービス不足感ってのは、実態を知らないだけなのかなと思います。過疎地に住んで不便だ、行政はどうにかしろという考えは理解はするけど、やっぱり人口減少の局面で要求どおりのことはできないよ、と強く感じるわけですね。

 そういうことですので、今日はビールを飲んで酒税をいっぱい払いたいと思います。