興味深かったので。



「僕が19年勤めた会社を辞めた時、後悔した12のこと」で語りたらなかったこと

http://kyouki.hatenablog.com/entry/2013/11/03/065014



 雇う側からすると当たり前のことでも、雇われる側からはなかなか見えないことの一つとして、「社員一人ひとりの損益分岐」や「使える人」という考え方で長い期間雇用を継続する会社はそんなにないよ、ということ。40代、50代になっても生き生きと働いて欲しいという職場もあれば、バリバリと働ける20代、30代の間だけ薄給で我慢して働かせて収益を上げようという経営方針もあるので何ともいえない。ただ、会社はひとつの仕事をずっと続けていくわけではなく、社員もまた、若いころ培ったスキルセットのまま成長していくということも考えられないわけですよ。


 「ICHIROYAのブログ」で語られる舞台は百貨店。小売業態の雄として、長年そのポジションを保ってきた世界ですから、そこで働く人は、接客や商品知識など、百貨店の世界は、私の目から見れば古き良き右肩上がり日本経済の成長で今日懸命に頑張れば昨日より良い明日が来るという世界観だったように思います。



 いっぽう、証券業界の調査業務のように磨耗する世界で身を立てようとした私の場合は、キャリアの出発点ですでに30代後半が能力のピークといわれている世界でした。投資である程度の成功をしていたこともあり、自分自身のキャッシュは潤沢にあったけれど、では能力=収入かといえばまったくそんなことはなく、自分が一人でやっていた20代前半の投資収益が一番効率よく稼いでおったわけです。つまり、ICHIROYAのブログで書かれているような、自分の能力がそもそも右肩上がりなどということは絶対にない世界が、おそらくは低成長時代の日本経済の姿だろうと思うのです。



 頑張っても所得が伸びない中で、その会社でかけがえのない存在であるべきか、というのは雇われる側からすると重い決断です。年収600万円台の人が、業界の好調ゆえに1,000万円の求人に応募してステップアップだといっても、業界の好調自体が数年で去ってしまうと次の求人はプロパーでないが故に400万円、500万円になってしまう世界は、おそらくは例示されている百貨店業界のように「接客を極めればある程度のポジションが確保される可能性がある」と世界とは隔絶しています。



 その人の能力が組織の中で図りにくくなり、また何で稼ぐかという能力のベクトルがいろんな方向に伸びている現状で、ひとつの組織の人事評価がたまたまその人にとって合わないが故に「使えない人」判定されて、貴重な20代30代を不遇のまま暮らしてそのまま解雇される人はあり得ます。一方で、その会社にあっていて、人事的にも上司的にも恵まれ、幸運にも能力を発揮できた人が、事業環境の変化と共にお荷物扱いされて会社を負われることだってある。千差万別の人生を自分でデザインしようとしても、できることは限られ、与えられた環境でどれだけ自分なりの成果を出し評価してもらうかというのが、きっと雇われる側の心情であるから、観念としての「会社にとっての損益分岐に達するか」という着眼点が生まれるのでしょう。



 しかし、実際に社員を雇う私たちの側からすると、一人ひとりがどれだけの損益を達成しているのかというのはそれほど関心材料ではなかったりもします。むしろ、いま手がけている仕事の見込み、収益を上げるために誰をどのようにアサインするかといったところですべてが決まります。逆に言えば、ある時期はソーシャルゲームの技術下請けが儲かっていたけど、その仕事がなくなるようであれば会社の損益分岐では上位にいたデザイナーやプランナーも解雇の対象になるということです。



 それは、百貨店というある程度昨年対比で売上がしっかり底堅くある世界か、数年でブームが来たり去ったりする世界かによって雇われる人が得られる教訓が違うことを意味するでしょうし、そして現在の日本経済では後者の割合がどんどん増えてきています。そういう不安定な世界だからこそ、起業家の重要性が叫ばれ、組織人として認められるかどうかのベクトルとは違う評価軸で人物の能力が測られる時代が来ているのだとも言えます。



 その意味では、どの尺度でも使えない人にとっては、かなり本気で食えない世界が待ってます。コンビニの店員すら勤まらない時代ですわ。そして、そういう人の競争相手は中国人留学生や身体を壊して社会復帰されたような高齢者です。これはね、大変なことですよ。



 mixiの追い出し部屋への社会見学会を企画したいです。