さとなおさんの書いておられることが気になって、言及。



シャープやパナソニックやソニーの凋落を、広告人や広告会社はもっと恥じるべきじゃないかな

http://www.satonao.com/archives/2013/03/post_3511.html



 あらかじめ書いておくと、私は当然シャープやパナソニックやソニーの中の人でもなければ、広告業界の人間でもない。さとなおさんが書かれていることを否定するつもりも批判する意図もない、という前提で。



パナにソニー 家電業界の撤退リストから見る、各社の苦悩と戦略(前編)

http://biz-journal.jp/2013/03/post_1756.html

シャープに富士通、NEC 家電業界の撤退リストから見る、各社の苦悩と戦略(後編)

http://biz-journal.jp/2013/03/post_1757.html


■ それは成功したのではないか



[引用] シャープやパナソニックやソニーがこれまでどれだけ広告費を使ってくれたか。

そして我々広告人や広告会社は、商品広告のみならず、イメージ広告やブランド広告、イベント、販促などを駆使して、シャープやパナソニックやソニーのファンを作ってきたはずなのである。




 ここで名前が挙げられているシャープやパナソニックやソニーについて言えば、事業体としての危機は6年前、7年前から発生していた。ああ、シャープは違うか… ただ、パナもソニーも社内の構造改革に苦しみ、ビジネスの仕組みの変更に随分悩んでいる期間があったように思います。



 あんまり他の人には言いたくないけど、私はいまでもパナソニック(松下電器)が日本経済の成長にあたって非常に重要な企業体であったと思っているし、その経営哲学や製品に向かい合う姿勢は尊敬している。もしも仕事での利便性だけで考えるならば、私はとっくにApple製品に移行してもおかしくない状況だけど、それでもいまなお割高で高品質なパナソニック製のレッツノートを次また買うかどうか検討しているぐらいだ。



 ソニーが苦労しているときでも何とかPROとつけば割高でも買ってしまう一部のロイヤリティあるユーザーはいた。テレビ然り。いまでこそ、完全にコモディティ化してしまった液晶テレビでさえ、まだ高いソニー製を買う人が一桁%いるんですよ。エレキが駄目だねえ、という敗勢だけ見るとその通りだけど、それでもまだあの高価なソニー製がシェア持ってること自体が驚きです。



 そんで、確かにいま、この段階では、シャープもパナソニックもソニーも経営危機が叫ばれ解体寸前だーって言われているが、知らない台湾製ブランドの製品を買う葛藤を私自身も感じるときに「ああ、私はパナが築き上げてきたストーリーでいまだにモノを選んでいるなあ」と思っちゃうし、郷愁のようなものは感じるわけですね。



 そういう意味では、刺さっているファンを築き上げ、彼らと価値観を共有しコミュニケーションをすることでマーケットを維持していく働きにおいては、機能したんじゃないかと思うのです。ここ数年はそれ以上に駄目な市況であるにもかかわらず、まだセールスパワーを擁し、いまごろになって「プラズマテレビから撤退検討」とか報じられてしまうクソのような経営であっても、過去の蓄積があって余力があるぞー、みたいな。



■ 広告屋が自己否定するべき性質の問題でしょうかね



 このあたりは、職業倫理や、果たすべき機能論のところだと思うのですが、ビジネスにおけるAIDMAの一部の機能を司るにすぎない広告業者が、ビジネス全体の磨耗と繰り返される経営判断の遅延やミスで滅び逝く日本系製造大企業の崩壊原因の一部を背負おうとするのは、むしろ広告事業に対する過大評価なんじゃないかと感じるんですよね。



 もちろん、プロとしてクライアントの広告に携わるからには、そこまで責任感もってやるべきだという気持ちは充分に理解できるとして。



 クライアントのファンを広告が作り得なかった、という点では、私は上記のように一定の成功はしていたと思っています。そうでなければ、もっと早く崩壊していたかもしれないので。ただ、それ以上に問題があるのだとすると、広告の作り方や流すべきメッセージがお客様とのコミュニケーションを強い形でクライアントと築かせられなかったという話ではないように思うのです。



 テレビ広告という大きい利益を生み出せる仕掛けに安住してクライアントにとっては実は効果の薄い媒体を広告宣伝の主力に持ってきて、大きな予算を使ってマスに対して仕掛けていくことをまず狙っていく広告業界全体の体質のところに課題があったんじゃないでしょうか。みんなお茶の間にテレビを置いて家族で観ていた時代から、各部屋一台テレビがある時代になって、生活スタイルも多様化してテレビの前に座っている時間帯が異なってきたあたりから、クライアントはマス広告の効果の薄さを実感していたと思います。



 然るべき広告効果という点では、いまでこそさまざまな計量が進んで広告業界以外でも「どの媒体にどれだけのコンタクトを打つべきか」というのが分かってきつつあり、もはや広告をプランニングする主役がクライアント側に交代していく可能性すらあります。そこに、広告コミュニケーションという考え方の抱える大きな課題もまた、見えているようにも感じるわけですね。



■ 「業」としての広告が反省する場合



 実は、広告業者の側も、広く見てどこまでどの媒体がお客様にどう「刺さっているのか」は分かってないんじゃないかと思うんですよ。限られた予算の中で、クライアントがターゲットに対して商品やメッセージをどう伝えていけば一番効果が高いのか、実はちゃんとは知らないんじゃないですか。



 そんで、そういう広告に効果がありますよ、といっても、割高なソニーのテレビがどう売れるのかという試行錯誤ができる時間はもう少ないと思います。いわば、老人が死ぬにあたって医師が「この治療方針であれば延命できたのではないか」と悩んだところで、その老人は死ぬしかない。そこで得た知見が仮にあったとしても、またかつぎ込まれてくる別の老人に薬石が投じられるにせよ、症状が違えば治療法も異なるだけでなく、実はその治療法がどのような効果があるのか医師も良く分かってない、って話になりかねません。



 医師としては目の前で失われ逝く生命に対して治療に身を捧げるというのは職業倫理として正しい姿勢ですが、業としての広告が見込みのないクライアントに効果が定かではない方法論を提示することが果たして発展的でしょうか。むしろ、その商品は広告を打つなどして顧客とコミュニケートすべきではない、という話までしないといけないかもしれません(ex パナソニックの新規の電子書籍事業)。



 たぶん、反省するべきポイントはクライアントが広告を機能として使い切れなかったことではなく、曖昧な広告効果の説明でクライアントに適切な広告をアレンジすることができずメディアシフトに乗り遅れさせてしまったことと、新しい認知拡大や需要喚起のプロセスを生み出すための仕組みをクライアントに提示できなかったことじゃないかと思うのです。



 もちろん、そういう話をしだすとどうしても「ためにする議論」になりがちなのですが、やっぱり非業界側の違和感というのはこの「常にズレている感じ」なんだろうなあ、と。