このところ東京での活動においては研究会などで簡単なプレゼンをする機会が増えまして、その代わり、発表のターンが終わると他の人の攻撃を黙ってやり過ごすという「相手ターン待ち」の時間がいっぱいあります。んで、防御力を高め会合とは関係のない活動の生産性を上げるための置物スキルがどんどん磨かれていくわけであります。


 当然、組織で運営していくための効率を考えたら、方針を決め、業務目標を立て、役割をきっちり決めて、進捗を管理するのが一番良いのです。軍隊も行政も企業もあまりそこは変わりがありません。でも人間らしさとか創意工夫とか知恵をどうプロダクトやサービスに反映させるかっていう知的労働の問題となってくると、そうそう簡単に割り切れるものではなくなってくる。



 仕事が出来るけど協調性のない奴とか、使えないけど人間関係のハブになってる奴とかどう評価すんねん、というのは昔からのテーマであり、会社としての売上が上がっていればどこかでそういうのは吸収できるんだろうけれども、組織の「規格外」の人間をどう扱うかはイレギュラー処理の塊となるわけですね。



 また、別の会社さんの発表では結構ドヤ顔で「弊社ではTwitterやFACEBOOKなど会社情報が漏洩する危険性のあるツール類のオフィスでの使用は私用スマホであっても禁じています」みたいな話に。いやでもまあそりゃあそうなんだろうけれども。知的労働に従事しない人だけで構成されているサービスであればそれでも良いのでしょうが、コンテンツを作ったりする仕事で企画を立てるのに調べ物をしない人はいないんで、なかなかこっちの職場ではむつかしいんじゃないのかな、と思います。



 あるアウトプットを出させるために、その人をオフィスにどう拘束するかという発想になるのは仕方がない。だからこそ、フリーアクセス的なオフィス構造にしたり試行錯誤する会社は出るんですよね。それで効率が良くなり、会社にとって必要なアウトプットがしっかり出るならそれで良い。場合によっては、完全夜型人間で寝る前とか明け方じゃないとまともにコードが書けないぜ、って人だっているかもしれない。そういう人は組織に向かないから、自分にあった働き方を模索した結果、独立することが多いんでしょうけど。



 ただ、世の中は自分の生き方を考えて突き詰めても充分喰える能力がある人たちばかりではないからこそ、組織と効率という考え方のもとで従属しサラリーを得るという立場に居る人もとても多いのです。また、自分のスキルは高いけれど、その組織や業界の中でのみ役に立つというケースもあれば、そもそも誰かに支えられていないと成立しない重要スキルだって存在する。だからこそ、自由よりも存在意義を大事に考え独立や転職をしないという人もいるわけなんですよね。



 そういう想像力が欠如していると、突き詰めた話がセントラルキッチンの集合住宅が人類社会の最高効率であり、理想の社会像だとかいう話になってしまうわけです。理屈としてはもちろん分かるよ。仕事終わってから楽しみで一時間かけてパン作りをしている人があったとして、ただそんなパンはヤマザキパンの工場であれば1分で終わる作業なのだからデイリーヤマザキに向かう時間やパンを作る本人のコストを考えたら圧倒的にヤマザキパンに軍配が上がるだろう、だから経済効率のためにもヤマザキパンを奨励すべきだ的な。



 エネルギー問題もそれ以外の課題もどれも人類は分散しているから効率が失われているのであるということで解釈をし始めると、無駄の極致とも言える文化的活動はすべて非合理的であり効率的でない一連の活動の集積という判断になってしまう。もちろん、極論を言えば、ですけれども。ただ、オフィシャルであれプライベートであれ、効率を突き詰めることを社会なり組織なりが始めると、何を持って成果とし、その成果を達成するためにどのような活動を行うべきかの設計と、運用管理が行われなければならず、それってどこのソ連ですかみたいな五カ年計画を立てて活動計画を策定しなければならなくなっていってしまいます。そこには創意工夫を行うための時間的、能力的な投資も、組織を潤滑に回していくためのさまざまな試みも、成果に結び付けられなければすべてコストであると片付けられてしまう危険は必ず孕むのですね。



 もちろん、そういう無駄は許される状況になくなった法人さんはクビを斬ればいいと思います。ただ、地方自治体や政府が、無駄は許されないという前提で何を持って効率とするかと言った場合、社会保障はそもそも無駄でござるという話になりやすいし、地方分権とかそもそもなんで分散するの非効率じゃんという議論になったりして、凄い勢いで拡散していきます。



 地方の行政改革に企業的な取り組みを、と一口に言うのは簡単だけれども、家計の発想で国家財政を語ると分かりやすいけど間違いを犯すのと同様、地方自治体と企業ではそもそもの役割が違うんだと思いますよ。だからこそ、その自治体が何を目指し、どういうゴールを設定することが地域の有権者のコンセンサスなのか、というところから逆算して考えていかなければならないだろうと。地域に老人が多ければ地方交付税ぶち込んででも救済するのが自治体の使命だろうし、でも持続可能性は皆無なのだから捨てられる地域へ向かうチキンレースになるのは当然ですし、立ち行かないのは誰もが分かっていることなのですよ。



 だからこそ、グランドデザインが大事だ、とは誰もが思うし分かっています。というか、何をするべきかはだいたいみんな考えていることは一緒で、このままではいけないとは思っている、ただ誰が、どうやるのかというところで同意があるのないの、話を聞いてないの誰それの顔が潰れるのというレベルの議論で終わってしまうと、やはり話が動かなくて何も考えていないのと一緒、後になって「俺はあのとき動けばいいと思っていた」「そうだそうだ」みたいな話になるわけですよねえ。



 なので、グランドデザインが大事なのは良く分かったから、一刻も早くロールモデルを作れよと思います。それこそ、ソ連の末期に農政で生産性向上の実績を持って書記長に登り詰めたゴルバチョフ的な実績作りというのは極めて重要なアクションだろうと。



 地方分権とか言ってる人が、プレゼンしている内容を要素要素で見ると中央集権的発想で国から法律が出来て予算が出ることを前提にしているあたりが笑えます。まあ、地域で得られる税収で必要なサービスを充足できなから当然と言えば当然ですが。でも逆に言えば、そこで議論が終わられても困るんですよね、成果が出ないから。