愛機に積む、新しい高性能爆弾を開発中です。


 以下は、一般論。と言いますか、大きい論点、問題意識は2つなんですけれども、(私が勝手に)思っていた以上に滅茶苦茶な世界なのだが、それが実は普通のことなのであって、中にいる人はそういうものであると良く分かっていて、内部に何らかの合理的な仕掛けがあるのかもしれないんですが。



 まず第一に、教授や准教授なのに業績がなくても構わないのでしょうか。



 例えば、高級官僚や企業で実績を上げた方が大学に招聘をされて教授職に就かれたばかりだ、という状態であれば論文を探しても見当たらないというのは仕方がないと思います。



 一方で、何の学会にも入っていなかったり、研究活動や研究成果が就任後相応の年月(たとえば6年とか8年とか)の経過があっても見られない場合、その人物をどう評価したら良いのか、あるいは大学の中でどのような評価になっているのか、良く分からないんですね。



 もちろん大学も商売ですから、お金を企業から引っ張ってこれるとか、有力教授の手引きがあって推薦を受けたとか、そういう話であれば理解はできようものなのですけれども、ただし外形的には教授や准教授を大学名つけて名乗っておられるわけです。そうすると、事情を知らない人たちは当然そういう方面の学術的な知識があるものと誤認することは避けられないでしょうし、仮に問題となりそうな人物が何らか別の使命をもって組織の重要な意志決定者との接触を繰り返したり、政府に食い込んだり、日本に来ていたりするのだとしても適切な警戒が払われずに長い時間放置されてしまう恐れはあると思うのです。



 次に、大学の教員職というのは、報酬の延払い、すなわち過去の業績に対して個人所得とせず研究費用と称して迂回的に個人的な資金に流用するのが可能なのでしょうか。

 あるいは、過去に属した組織で行った事案に対する「報酬」をそのとき受け取らない代わりに、大学の教員になってから研究費等として事後受け取ることができるのでしょうか。



 例えば、政府要職や重要政策の立案に携わった人間が、その時点での公務員あるいは国会議員の資格ゆえに報酬は貰わないけれども、その重要政策の施行によって受益した法人組織や個人から然るべき年月を経過させたのちに、スピンアウトした先の大学の本人の研究室に共同研究費等として資金を受け取る、というのは望ましいのだろうか、ということです。



 公訴時効が過ぎていれば、時間差で報酬を得るとしても本人同士、あるいは組織対個人の仁義則の中で処理される限り、名目の大義名分が立てば問題ないのだ、という議論は成立するのでしょうが… それでは大学という組織が事実上の経年オフショアのような扱いになってしまいます。



 もはや、法の問題というよりは機構を使った仕組みの不備なんだろうとは思うわけですが、そうである以上、大学とお金、教授等教員の選任過程といった別のインシデントを考察しなければならんので、問題を本気で解決しようと思ったら被撃墜の危険を問題とせず爆弾積んでゴーという根性が必要なんだろうなあと改めて思いました。