今日、あまりのことがありまして久しぶりにエキサイトしてオフィスで大声を出してしまったんですが、まあ要するに私もまだ若いぞということであります。
そのあまりのことというのは、結果の出ない大御所、というか、本人ではなく本人への周辺の扱いの拙さでして、とかくクリエイターというのは自信過剰なモードがあったり自信喪失したりと波があるのも事実で。結果が出なかったことを一番良く知っているのはたいてい本人で、でもそれを完璧に弁えた行動をしたら、そりゃそもそもクリエイターじゃないってことだと思うんですよね。
なぜなら、クリエイターとは他の人とは少し違った何かを持っているからこそ、新味のある尖った何かをオーディエンスに突きつけることが出来る存在だからです。えてして、人格的にはやや歪んでいるという。もちろん茶坊主に変なことを吹き込まれて道を誤ったり、過剰な自信に辟易した周囲のまともな人たちが去っていったりといろんなイベントは発生するんですけれども、ある種の「俺は凄い」感がオーラになって周囲を巻き込んで制作にチームを熱中させて良いモノを作り上げようとするのが優れたクリエイターなのでしょう。
何に私が怒ったのかというと、もちろんユーザーや受け手が「あいつは終わった」と言うのは自由なわけです、彼らは選択の対象としていろんな代替物があり、価値がない、面白くないと思ったものは手に取らない自由があるのだから。言われるのは仕方がないだろうし、そういうのを見て凹むのであれば見ないようにするか凹まない精神力を持って生まれる他ない。ただ、カネを出している側が、結構平気で「彼はもうモノを作る能力はありませんよ」と言う。かなり簡単に言う。カネを出してモノを世に送り出す側が、算盤勘定以前の評論家然として起用したクリエイターを語るというのはなんだと思うわけです。
基本的に、パブリッシャーや代理店というのは大事な存在で、一定の課題をクリアすればリスクを背負ってくれる有り難い組織なのですが、パートナーとして製作に携わるからには行う制作に対しては敬意が払われないと成り立たないのは当然のことだと考えるんですけどね。でも、本当にぞんざいに扱う。もちろん制作の現場経験を経て投資側に回った人も少なくないだろうから、その人なりの作品や市場に対する読みはあるのだろうけど、本当に制作の能力があってそのポジションにきたのであれば、いま彼らの目の前にいる若いクリエイターとは比較にならないほどの実績を擁しているはずだ。でもそうじゃないってことは、制作での実力ではなく、組織人としての処世でやってきたということでしょう。
大御所は、まあもちろんいろんな大御所はおりますけれども、やはり何がしかの成功を経て、評価を受けて業界で生き残って現在あるんです。いまの時代にウケるモノが作れない、ついていけない、と評価しているのであれば、頼まなければいいじゃないですか。でも大御所にモノ作りを頼んでカネを出すのは、「いろいろ検討した結果、あの実績がある大御所に頼むことにしました」と上を向いて稟議を通すための方便に他ならない。失敗しても、いまの時代が分からない投資家や経営陣に「最善を尽くしたんですけど、あの大御所でも駄目でした」とエクスキューズが効くと思っているんです。安全パイを選んだふりをするわけですね。
や、確かに大御所の多くはゴミしか作らないですよ。本人たちだって、モノ作りの現場に降りてきてないですから。若くもないし。たいていクリエイターは自称しているけど、クリエイティビティなんてとっくに枯渇しています、残念ながら。企画や実装案を聞いてて分かるもの。なんせソーシャルゲームなんて当てるどころか作ったこともないおじさんがテレビに出てきて「ソーシャルゲームとは」とか解説しちゃうんです。実績があるから。でも、受け手はいいんです。ユーザーは何言ったっていいんですよ、大御所がまたクソなの作りやがって、って批評すれば。
でも、カネ出しておいて、途中までケツ叩いておいて、微妙な中間成果物が出たところで、フェーズで切るならともかく続けさせて恥を晒させるのは止めたほうがいいんじゃないでしょうかね。それとも、大御所がどっかルートで話を耳にして、自分から降りると言い出すのを期待しているんでしょうか。良く分からないけれど、老将に前線へ押し出しておいて後ろから斬るような真似は良くないと思いました。
っていうか、斬られた大御所も死に損なってないで早く後進に道を譲って評論家生活に入ってください。クソなの作られるとみんな疲れるし損するんで。頼みます。
そのあまりのことというのは、結果の出ない大御所、というか、本人ではなく本人への周辺の扱いの拙さでして、とかくクリエイターというのは自信過剰なモードがあったり自信喪失したりと波があるのも事実で。結果が出なかったことを一番良く知っているのはたいてい本人で、でもそれを完璧に弁えた行動をしたら、そりゃそもそもクリエイターじゃないってことだと思うんですよね。
なぜなら、クリエイターとは他の人とは少し違った何かを持っているからこそ、新味のある尖った何かをオーディエンスに突きつけることが出来る存在だからです。えてして、人格的にはやや歪んでいるという。もちろん茶坊主に変なことを吹き込まれて道を誤ったり、過剰な自信に辟易した周囲のまともな人たちが去っていったりといろんなイベントは発生するんですけれども、ある種の「俺は凄い」感がオーラになって周囲を巻き込んで制作にチームを熱中させて良いモノを作り上げようとするのが優れたクリエイターなのでしょう。
何に私が怒ったのかというと、もちろんユーザーや受け手が「あいつは終わった」と言うのは自由なわけです、彼らは選択の対象としていろんな代替物があり、価値がない、面白くないと思ったものは手に取らない自由があるのだから。言われるのは仕方がないだろうし、そういうのを見て凹むのであれば見ないようにするか凹まない精神力を持って生まれる他ない。ただ、カネを出している側が、結構平気で「彼はもうモノを作る能力はありませんよ」と言う。かなり簡単に言う。カネを出してモノを世に送り出す側が、算盤勘定以前の評論家然として起用したクリエイターを語るというのはなんだと思うわけです。
基本的に、パブリッシャーや代理店というのは大事な存在で、一定の課題をクリアすればリスクを背負ってくれる有り難い組織なのですが、パートナーとして製作に携わるからには行う制作に対しては敬意が払われないと成り立たないのは当然のことだと考えるんですけどね。でも、本当にぞんざいに扱う。もちろん制作の現場経験を経て投資側に回った人も少なくないだろうから、その人なりの作品や市場に対する読みはあるのだろうけど、本当に制作の能力があってそのポジションにきたのであれば、いま彼らの目の前にいる若いクリエイターとは比較にならないほどの実績を擁しているはずだ。でもそうじゃないってことは、制作での実力ではなく、組織人としての処世でやってきたということでしょう。
大御所は、まあもちろんいろんな大御所はおりますけれども、やはり何がしかの成功を経て、評価を受けて業界で生き残って現在あるんです。いまの時代にウケるモノが作れない、ついていけない、と評価しているのであれば、頼まなければいいじゃないですか。でも大御所にモノ作りを頼んでカネを出すのは、「いろいろ検討した結果、あの実績がある大御所に頼むことにしました」と上を向いて稟議を通すための方便に他ならない。失敗しても、いまの時代が分からない投資家や経営陣に「最善を尽くしたんですけど、あの大御所でも駄目でした」とエクスキューズが効くと思っているんです。安全パイを選んだふりをするわけですね。
や、確かに大御所の多くはゴミしか作らないですよ。本人たちだって、モノ作りの現場に降りてきてないですから。若くもないし。たいていクリエイターは自称しているけど、クリエイティビティなんてとっくに枯渇しています、残念ながら。企画や実装案を聞いてて分かるもの。なんせソーシャルゲームなんて当てるどころか作ったこともないおじさんがテレビに出てきて「ソーシャルゲームとは」とか解説しちゃうんです。実績があるから。でも、受け手はいいんです。ユーザーは何言ったっていいんですよ、大御所がまたクソなの作りやがって、って批評すれば。
でも、カネ出しておいて、途中までケツ叩いておいて、微妙な中間成果物が出たところで、フェーズで切るならともかく続けさせて恥を晒させるのは止めたほうがいいんじゃないでしょうかね。それとも、大御所がどっかルートで話を耳にして、自分から降りると言い出すのを期待しているんでしょうか。良く分からないけれど、老将に前線へ押し出しておいて後ろから斬るような真似は良くないと思いました。
っていうか、斬られた大御所も死に損なってないで早く後進に道を譲って評論家生活に入ってください。クソなの作られるとみんな疲れるし損するんで。頼みます。