どこぞのゲーム系研修会で喋ったネタとモロかぶりなような気もするけど、大人はそんな細かいことは気にしない。

ソーシャルゲーに感じている違和感について
http://blog.myrss.jp/archives/2011/09/post_172.html

 書き手さんが「始めに書いておきますが、私はソーシャルゲームをまともにやったことがありません」と断っておられ、また確かにソーシャルゲームをプレイしない人であれば感じるだろう違和感と、ソーシャルゲームをプレイしたり制作したりしている人にとっては当たり前で忘れ去られた感覚でもあろうと思うので、備忘録的に書いてみることにしました。完全に雑談であり、オチはありませんので、暇人推奨。
● ゲーム対ゲームの戦いではなくて、娯楽同士の戦い

 最近ではマーケティング上で目玉の奪い合いという言い方をする人がとても増えましたが、娯楽産業は可処分所得と余暇時間の奪い合いであり、全体の所得も減ってきたので生活必需ではない産業に流れてくる金額も頭打ちになっている、というのは自明なことだと思います。

 とはいえ、需要全体がクランチしてなくなってしまうのかというとそうでもなくて、既存のあるものから別のものへと市場が変化しているだけのことで、たとえばTSUTAYAとhuluなどの関係と結構同義な部分があると思います。huluはこちら。

http://www.hulu.jp/

 なんでhuluを取り上げたかと言うと、月額課金であり、高いから。これがYoutubeやニコニコ動画、GyaOなどと大きく違うのは、薄く広く取るのではなく、しっかりとしたコンテンツを金出して観るオンラインユーザーという属性に対して訴求する作戦としてはオーソドックスだけど結構な強度のものだからなんですね。

 そういうお金を出してコンテンツを楽しむ層というのは稀少です。ループスの斉藤さんが講演で少し触れていましたが、昔は野良ユーザーの射幸心を煽って課金への心理的抵抗感をなくし多くの収益を得るモデルだったのが、だんだんソーシャル慣れをユーザーがしてきて、お金を払う良質のユーザーをどう飽きさせずに繋ぎとめておくかが大事、という風にシフトしてきているのが実情だろうと思っています。

 TSUTAYA的なるものは、コンテンツにお金を払う人の総称であって、それが郵便ポストを使ったDVD・BDレンタルという過渡期的な商売を経て、オンラインでしっかりお金を支払う人に相応のサービスをしっかりと提供するという方向へどんどこシフトしていき、その王様がiTunes Storeであるという意味合いであればご理解していただきやすいと思います。まあ、それだけじゃないんですが、分かりやすさでいうならそれかなと。

● コアと課金、唯一無二のクオリティに関して

 これも、ユーザーコミュニティとコアと課金の関係になるわけですけれども、コアについて言うならばひとつのコンテンツやブランドに対してユーザーが集い、内部にコミュニティを形成して離脱率を防ぐメソッドは、以前は防衛的に使われていたものが、最近では逆転して、コンテンツを育成するための武器として攻める道具になっているのが実情かなと思います。

 ラグナロクオンラインは課金モデルであり、ユーザーはずっと楽しんできた共有体験を忘れないためのお布施として、遊ばなくなったROに課金し続けるというアプローチを持ってます。三国志大戦もそういう感じで、もうプレイはしないけど三国志大戦.netには300円ずつ払い続ける的な部分はあります。解約が面倒くさいと言うのもあるかもしれないけど、いつか戻ってきたときに、かつて一緒に冒険した友達がいるかもしれないという保険に数百円の月額課金を置いておくのは一般的なわけですね。

http://tera.hangame.co.jp/

 で、最近はというと、Teraに代表される、圧倒的なクオリティ(らしきもの)を実現しているんだから、3,000円ぐらい毎月ちゃんと払えよ的な、攻める道具になっているケースが増えてきています。金を払ってくれるユーザーがきちんと溜まっているのなら、アイテム課金などとは別にしっかりとした料金体系を用意して、そういうハイクオリティなユーザーが貧乏臭い無料課金ユーザーにクズ馬鹿死ねなどと煽られずに快適にプレイできる環境を用意してやろうという話でございますね。

● 結局、どのくらい客はコンテンツに金を払っているのか

 これは諸説あるんですけれども、据え置きのゲーム機にお金を投入していたユーザーや、FPSなどPCゲーにお金を投入していたユーザーは、昔は全然かぶってないと言われてきました。が、最近のマーケティングデータなんかをしげしげと見ておりますと、6年から7年ぐらいのときを経て、みんな結構状況に応じて据え置き機も携帯用ゲーム機もスマホもPCも遊んでいるという実態が明らかになりつつあります。

 もちろん、ゲームのプレイヤーとしてのボリュームゾーンは高校生あたりですので、そこにひとつ山はあるけど金を持っていないため市場としては20代後半から30代ゲーマーが担っているのは事実です。で、昔は高校生ゲーマーが遊ぶやり込み系で奥の深いゲーム性を持つゾーンと、30代がやるゾーンは共有していなかったのが、ゲームをプレイして育った高校生が就職したり、失職したりして大人になり、ボリュームゾーンに合流してきた結果、市場が「据え置き機だから」「携帯機だから」というようなセパレートをしなくなってきたというのが実態なのでしょう。

 ゲームも産業としてユーザーと一緒に年をとってきたのだなあということを実感します。

 で、追跡調査、といっても粗いものなので仮説に過ぎませんが、冒頭で違和感を感じておられたエントリーでも触れられていた「感情課金と収益構造」でいうと、実際のところ、30代のゲームを趣味とする男性が、ゲームカテゴリーに投下している月額の可処分所得はほっとんど変わっていません。ゲーム白書やCESAの内容とは若干結論は違うけど、要するにいままで任天堂に払っていたゲーマーのお布施が、PSPを経てソーシャルやスマホにある程度移動したのだろうなあという想像がつくのであります。もちろん、全額移動するはずもないんですが、映画(レンタル含む)やパチンコ・パチスロなどのレジャーが年代別に見ると結構ソーシャルに吸い寄せられているのを見ると、なるほどそういう構造かと思う部分であります。

 逆に、釣りやサーフィン、ゴルフを含むアウトドアのレジャーへの出費は見事にソーシャルに代替していないのを見ると、顧客属性というのはそこまで綺麗に分かれるのかと感心する次第で。

● で、ソーシャルはどこまで続くのというお題

 成長著しいソーシャルゲーム界隈ですが、っていうかソーシャルゲームで一個も当てていない大御所がNHK教育の番組で偉そうに解説とかしていてマジ何してんすかと思うわけですが、この手の可処分所得の市場間移動を見るに、やはり青天井で市場が成長していくなんてことはまずありえないんだろうなあと漠然と分かるところではあります。では任天堂のように敷居を上げて良質なものだけ投入できる環境が良いのかとか、アップルみたいに30%もの寺銭を取ってアメリカの国家予算以上の現金を積み上げられるような市場が良いのかとか言われると判断に難儀するところです。

 きっと「もう来年終わる。終わる」と毎年のように言われ続けてもなお長く勢力を保ったモーニング娘。のように、次なる素材や儲かる手段が見えてこない限りなかなか廃れないのが娯楽産業なのかなあと思います。やっぱりカラオケ産業やパチンコのように、すーっとでかくなった産業は内部で優勝劣敗と資本集約が進んで、一握りの勝ち組とその他大勢の下請けという構造を完成させるや市場全体の伸びが止まってみんな一斉に苦しくなっていくという産業の経緯もありましたし、同じくi-modeなど携帯キャリアが用意したイケスで繁殖してでかくなった携帯コンテンツ会社も環境の変化とともに輝きを失って人材喪失の草刈場となったりするところであります。

 まあ、日本のソーシャルプラットフォームの場合、ある程度「出会い系サイト的機能」によって長持ちして採算があっているところがありますので、そのあたりを加味するとまだまだいけるのかなあとも思いつつ。

● なお、この原稿に特にオチはない

 何最後まで読んでんだコラ。