最近、海外メディアの日本関連記事で「そう見られているのかw」と思うような内容がとても多い。確かに、日本社会や日本人は特殊なのかも知れん。海外の連中に言わせると「うちの国なら、とっくに暴動が起きてる」ということのようなのだが。

Silenced by gaman
The world has admired Japan’s stoic spirit. But there is a worrying side to it
http://www.economist.com/node/18587325?story_id=18587325

 暴動が起きない理由は、日本人の特殊性に加えて、若い人が少ないからというのもあるかなあと思いつつ。
 twitterでも指摘されたけれども、福島の原発問題と、沖縄の在日米軍基地問題というのは、ある種の過疎問題というか、僻地や前線を機能的に選んだ結果、なし崩しに決まってしまったものがもう動かせなくなっている、という表面張力のような緊張感を持っているのかなあと思う。都市部より遠いところに原発があって欲しいし、首都より遠いところに前線があって欲しい。だから、最終的に国民の総意ではなくとも何となく合理的に考えた結果、青森には核のゴミ箱ができたり、沖縄には米軍基地が居座ったりする。

 これをうっかりどかそうとすると大変なことになる。ある種の慣性が働いているといっていい。軌道修正が出来ない。これ、施設とか目に見えるものばかりではなくて、憲法9条にしても、護憲だ改憲だと騒いでわあわあ言って、いまだに一文字も変わらない現状があったりする。どうなんだろう。

 大企業の昇進システムやら企業風土やらも同じ、プロ野球の体質も地方自治の現状も、どうも「なんとなく」の空気感で、同調圧力があり、それに背くとKYと呼ばれ、うっかり出過ぎると叩かれる。真面目に議論をしないので、制度を変えないための先例主義みたいなのが跋扈してしまう。

 いや、先例がいけないって言ってるわけじゃないよ。でも、その先例が不合理だったら修正をかけましょう、というのが進歩だと思うので、そこに何らか議論が挟まって然るべきだと考えるのだ。だけど、東電にせよ他のあらゆる行政改革にせよ結構似たメカニズムで改革の機運が萎え、合理化の芽が摘まれてきた事実はみんな良く知ってる。

 しかも、これって既得権益とかそういう文脈だけの話じゃない。片田舎の役所でも都会の企業組織でも役職に権限がついて稟議がある限り必ずついて回る問題だ。意志決定における、非合理性の問題、それが日本が伝統的に抱える病理なのかも知れん。

 それが外人からすると我慢に見えるのだろう。我慢なんかしてないんだけどね。何か余計なことをすると叩かれるだろうから、なるだけ目立たないようにしている人が多いというだけで。マナーもそうだが、何か目立つことをして顔バレして親に泣かれたり村八分になって生活が出来なくなるリスクを考えると”普段どおり”行動したほうがいいと考えるだけであって。

 まあ、それを外人は気にしないからデモや暴動が起きるんだろうけどね。

 「お前はブログなど更新している場合か」と突っ込みをいただきそうな状況なので、ひとまずはこの辺で。