まだ初動対応は終わっていない、という気持ちもあるけど、11日に震災が起きて一応は約三週間経過したというのもあって、個人的に考えていることの総括の項目出しでもしようと思います。ありがたいことに月刊誌からも寄稿のご依頼を頂戴していたのですが、この手の話題を披露して原稿料を貰うようなのは流儀じゃないのと、いますぐ書いてアップしてしまうことで一刻も早く自分の気持ちに整理をつけたいというのがありまして、ブログで書くことにしました。

 最初に書いてしまいますが、理性では「大丈夫だろう」と思っていても、いまだにとても不安です。それも、誰かと分かち合えるような不安ではなく、また、自分の生命に対する不安ではなくてですね。

 もし同じような災害に遭って、愛する家内や私の息子たちが冷たい波の下に沈んでしまったら私の人生のその後何を糧に暮らしていくのかとかいう、意味はないけど拭い去れない「たられば」の不安と、私たちが営々と築き上げてきた我が国の社会における信頼や価値というものが震災復興の困難な長期化によって崩れ去ってしまうのではないかという不安、また、戦後と同じように復興していけばいいじゃないかという楽観論の裏側にある若者が少なくなっていていまの社会に復興させられるだけの活力が残っているのだろうか、私たちは次の世代にきちんとした社会を引き継ぐことができるのだろうか、という不安、などなど、結構複合的なものが来ているのです。
・東電が一日にしてJAL化したこと

 投資をやる人でなくとも、東京電力といえば誰しもが知っているディフェンシブな企業であり、安全神話とかいう安易な言葉では語り尽くせない社会の軸の要素のひとつだったと思っています。そうじゃないよ、それほどでもない、と否定したい人がいるかもしれませんが、東京電力が電気の供給を完全な形ではできなくなったことで、どれだけ私たちの生活の切り下げを余儀なくされ、不安を抱えることになったのか、きちんと向き合う必要があると思います。

 日本航空の場合は経営不振は誰の目にも明らかで、あるいは日本郵便、あるいは日本国有鉄道といった、こりゃどうしたもんかと皆が思う中で、政治がようやく踏ん切りをつけて処理する問題というのがありましたが、東京電力に関しては、文字通り一日にして経営が困難に陥るだろうことはモノを知る慎みある社会人ならば誰もが予見でき、また恐怖であるとも感じています。

 私たちは、東京に住む住まないに関わらず、それなりの金額を上乗せして電気料金を払い続け、この負債を贖罪のような形で解消していかなければなりません。東京電力に対して怒ったって始まりません。後悔してもダメで、これから一歩一歩、放射性物質と共に歩いていく必要があるのです。

・意外に日本人に優しい外国人

 日本人が思っているほど日本人は嫌われていないことは、海外に頻繁に出かける人であれば良く知っているとは思いますが、思っていた以上に外国人にとっても日本の今回の震災と、日本人が味わった苦難というのは共感を呼んでいました。

 いままで無理をして援助大国できた我が国の最後の輝きなのかなあとも思いつつも、意外なところで信頼され、また慈悲の対象となっていたことは、比較的外人とのお付き合いの多い私にとっても思った以上の出来事で、もう何年も連絡を取っていないような外人から突然メールやskypeで励まされたり、状況を聞かれたり、必要なものはないかと問われたり、モノを送られたりというのは、やはり来るものがあります。

 問題は、そういう日本、日本人に対する信頼感に今後どう応えていったらいいのか、また、次の世代、その次の世代へとどう引き継いでいったらいいのかを考えることです。グランドデザインと一言で言えば終わってしまいますけど、そのぐらい、私は重要なことだと思っています。

・この国の形とか

 地震や津波の被害が明らかになりつつある中で、結構早い段階で、感覚として「あ、戦後が終わったな」と思いました。何で? と言われると、結論を論理的に明示することもむつかしいのでしょうが、私は日本の歴史の中で繰り返されてきた秩序の崩壊期から再編期に入ってきたんだろうと感じています(東京大学の坂野教授の影響が強いのですけど)。

 必要なことは、議論することです。それも、繰り返し繰り返し、思うことや考えつくことをひとつでも多く、一人でも多い人たちが声を上げて議論してコンセンサスを作っていくこと、生産的で建設的な方向に進んでいくことだと思います。

 国が形を決めるのではなく、国民が国のあり方を決めるのだろうと思うので、財政や行政システム、中央と地方、法と国民、憲法と安全保障といった、枠組みを一つ一つ詳らかにしていくこと以外に、文字通り日本人のこの困難を乗り越えていく方策を見つけられないだろうと。

 そのために、国というフレームワークをどう使っていくのか、という議論にしていくことが肝要なのだろうと個人的には考えています。

・ソーシャルメディアは役に立ったのか

 各論に近いですけれども、今回は大本営発表といいますか政府の公式発表の受け皿がいわゆるマスコミだけではなくなり、国民同士が自在に情報を流通させる土台ができてきました。これ自体は、とても素晴らしいことだろうと思います。

 その上で、国民が何かを知りたいと思ったときに、正確でタイムリーに情報を提供していくための手段としてのソーシャルメディアの強みと課題をきちんと整理しておくことは極めて重要になりました。というのも、従来のマスコミに比べて、一個一個の情報の粒度は小さく、正確だったとしても情報を求める人に適切な形で情報が流通していかないこともまた、大きな問題だと認識できるからです。

 恐らくは、既存のマスコミとの補完関係を保ちながら、ソーシャルメディアの枠組みも成熟していくのだろうと思いますが、やはり従来の法制度や慣習の枠組みから一足飛びに進められるものではなく、少しずつ問題を消化していきながら成長していくのだろうと改めて感じました。

・東電の総括、ひいては日本組織の人事について

 話はやや戻る感じになりますが、我が国の組織や制度運用についての側面で、東京電力はひとつのモデルケースとなりました。簡単に言えば、現場から離れている人が昇進するため、問題が起きたときに組織として対処する能力を著しく欠く、という構造的な欠陥であり、例えばこの問題が他の大組織で起きたとしても、やはり同じように右往左往して問題の解決に至る道筋は遠かったのではないかと予見されます。

 組織が大きければそのガバナンスが複雑になり、外部からのショックやストレスに対して迅速な対応ができなくなるというのはある意味で宿命ですが、じゃあ東京電力のような巨大システムを運用し、数千万人のオーダーに対して電力を供給するインフラと膨大な処理を実現するのに機動的な組織は適用できません。

 解決をしていくための問題の所在はどこにあるのか、それを処理するためにはどのような優先順位で組織を動かしていかなければならないのか、といったリスクマネジメントがどうという以前の課題であって、たぶん、大組織には然るべきチェック機能がきちんと働き、相応の人物が相応のポジションに就く仕組みができなければ、同じ問題を起こすことになるのでしょう。

・国民背番号のようなもの

 いろいろな議論はありましたが、真面目に社会の経済効率やリスク回避を考えると国民を管理する方法については合理的な方策を採用する方向で考えたほうが良いように思いました。

 議論の呼び水が災害であるというのは情けないところですが、歳入庁の議論と同様に、私たちが私たちの抱えている問題を解決していくためには、新しい国民の管理システムが必要なのかなあと。まさか役場がバックアップごと津波で流されて、どこの誰がいなくなっているんだか判然としないというような問題が起きるとは思いませんでしたが。

・政策として、何を棄てるべきかの議論(何をするかではなく、何をやめるか)

 大前研一せんせが最近張り切って、海沿いの町は復興すべきではない、というようなお話までしておられましたが、その辺はまあ極論かなあとしても、今回の輪番停電などでも分かるとおり、いままでどおりすべての国民の生活レベルを維持することができないということがはっきりしたのも今回の災害です。

 これで復興国債でも出て、その財源はどうするんだよという議論も出てくるわけですけれども、震災がなくともこのままでいけば六年から七年ぐらいで国債の消化は厳しくなるのではないかと霞ヶ関方面では推論されてきました。

 いままでは、全産業を守る方針できたわけですけれども、成長戦略を考えるにあたっては重点的な政策課題をきちんと設けて、海外に依存するなど棄てる部分は棄てていく改革に着手していく時期が来たのだと思います。

・停電と高層ビルどうすんだよ

 地震や津波で一次被害が凄かったわけですけれども、恐らく次の四半期から不動産価格の急激な下落に見舞われたことが明らかになって、最終的な損害額は結構な金額になっていくと思います。全体では20兆どころではないのではないでしょうか。

 一番大変なのは、電力の不備によって、潤沢な電力供給を前提とした高層マンションなどの高付加価値な物件が極端に下落していく可能性で、ぶっちゃけ東京近郊のタワー型マンションとかで自力発電の設備がないと、上層階に住む人は帰宅できなかったり空調が使えずに高温になったりしてしまうでしょう。

 高層ビルに限らず、電力が充分に供給されるということが当たり前として組み立てられている財やサービスが文字通り溢れ返っています。東京電力が頑張って、また私たちが節電に凄く協力したとして、やはりそういうものは問い直す必要があるでしょう、と。

・科学と人情の差

 東京電力や保安院が情報を隠しているとか、官邸の説明は不十分だ、不安だ、という話はたくさん出ました。私も不安ですから、あまり人のことは言えませんけれども、少なくとも理屈においてはかなり正しい説明を行っているにも関わらず、科学者は「絶対」という言葉を使わない以上、人情として「絶対」の安全を宣言して欲しいニーズを叶えられず、じっとりとしたパニックがゆっくりと拡大していく、という事例が今回とても多かったように感じます。

 一連の官邸の危機管理が良くなかったかどうかはまだ判断がつかないわけですが、少なくとも原子力発電所は爆発してしまったわけで、やはり感情においてはこの手のトラブルが与える影響を科学がしっかり受け止めていられないという怖さはあります。結果的に、池上彰氏がテレビで解説したほうが、東京電力の記者会見による報道より不安が治まるというのは結構衝撃的でした。

・不安の大安売り

 一方で、やはりガセネタは多かったように思います。かくいう私も、ヨード剤がなければうがい薬を飲めばいいという文献を信じて拡散しちゃったりして反省したわけですが、善意に裏付けられた不安によるデマの拡大と、恐怖を煽って情報を売ろうとしたりワイドショー的に被災者や事件を扱おうとするマスコミは結果として本当にろくなことをしなかったと現段階でも思います。

 これが報道統制の結果だったら政府批判をしておけばいいんでしょうが、実際には報道の公開性や自由を求めている人たちが不確かな情報や推論を元に積極的にガセネタを流してきたことはまことに忌むべきことであります。自戒の側面もあります。ただし、今回とても良く分かったことは、情報は受け取るばかりではなく、発信もまたしており、そこにどう裏づけと責任を考えていくべきなのかという行動倫理のようなものでありました。私も、今後はなるだけ慎みたいと思います。

・知識人の世代交代

 おまけですが、結構尊敬してきた我が国の知識人の皆さんが、今回の震災でパニックとなり、冷静とはいえない発言や、冷静とはいえない行動や、冷静とはいえない主張をしておられ、極めて残念に感じることがままありました。いや、不安なのは事実であり、私も不安ですから、いまも東京に居て何かあったら家族をどう守ろうかと思案するわけですけれども、恐怖に直面して知識人が率先してパニックになって読者と一緒に動揺しているのは見ていてとても悲しくなるわけです。

 一方で、これから実績を上げていこうと考えている若い研究者や言論人には、落ち着いている人が多かったように記憶しています。冷静に報道に向き合い、情報を整理してコンパクトに提供し、論点を絞って思案しているのを散見しました。

 これらを以って「地が出たな」と難ずるつもりはありません。平時に優秀な人が非常時に使い物にならないというのは、その人の向き不向きにすぎませんから。ただ、自身を客観視してパニックに陥っているなあと思ったら、少し静かにしたほうが周囲から失望されずに済むのかなあと個人的には感じました。