何かスレタイが「虎は死して皮を残す」的な表現になってますけど、気のせいです。

一個人|心に残った本||池上彰「伝える力」
http://www.ikkojin.net/blog/blog6/post-2.html
otsune tumblr まとめサイト 画像保管庫Q
http://otsune.tumblr.com/post/942317506

 ブックファースト。いいねえ。漢だと思うんですよ。例えばゲーム業界でうっかり小売が「小島秀夫はバルブだ」とか書こうもんなら、そこの小売はその日のうちにコナミ流通から外されかねない勢いだと思うんで。もちろん小島作品はバルブではないと思うけど。ブックファーストの店長の件は、やはりバブルと言い切るのではなく、パルプだ(紙だ)とか言っておけば後で言い訳も立つんじゃなかろうかと、勝手なお節介を感じてしまうんですけどね。

 以下、項目別に。
● [序章] なぜか内田樹氏が登場

 呼ばれてもいないのに内田樹せんせが登場しており香ばしいです。どこから現れたんでしょう。

ウチダバブルの崩壊
http://blog.tatsuru.com/2010/08/13_0928.php

 内田せんせの場合は、ご自身が詳しい分野のことを書けば品質も高く面白いのに、無理に分野を広げて門外漢のことも専門家のように力強く書き綴るため、ストライク本とクソボール本とにはっきり分かれる巨人・クルーンの投球のような仕上がりになっていることがバブルより先に問題になるのではないかと思うわけです。

 ご本人は「これを「バブル」と言わずして、何をバブルと呼ぶべきであろう」と書いているが、対談本を含め10冊以上の執筆に携わる程度の著者は他にもいるのでバブルの域には程遠い。それでも話題に噛みたがるのは内田せんせの社会現象に対する「愛」、あるいは巻き込まれたがりの精神ではないだろうか。

 できれば壇上から呼びかけられてから登場して欲しい人の一人であって、お声もかからないうちから「いや、俺もバブルっすよ!!」とか言ってロイヤルランブルに自ら突入するのは場が荒れるのでお控えいただきたいところであります。

 ただ、茂木せんせによる当事者突入の呼び水を作ったという点で、役割は果たした、といった感じでしょうか。

● [第一章] 勝間和代女史、バブル論に対して発言する

書籍バブル論について~私も当事者の感想を入れます
http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/private/2010/08/post-f4b3.html

 本丸はこちら。名指しして「お前、バブルなんじゃあ」と言われ、茂木せんせが反応したこともあって「無反応じゃまずい」という考えも働いたのか、勝間女史が満を持して登場です。

[引用]私の考えは、結論から言いますと、後から見ると「バブル」といわれるものの正体は、私は「将来へのオプション投資が一点に集中すること」だと思っています。

 たぶん、冒頭からこういうことを書くから飽きられたんだと思うわけですが、池田信夫に言われるまでもなく彼女の本が最近売れないことについてはある種の「定め」があるように感じます。

 以前、日経マネーの書評で勝間女史の本を取り上げたのは、企業会計に対する真摯な姿勢と、複雑なものをシンプルに読み解こうとする勝間流の合理主義が一冊の中に貫徹していたことが「新鮮」だったからでした。勝間女史の実績はともかく執筆の内容は確かに品質が高く、市場に慣れ親しんで企業会計は知っているはずの私たちでも、基本的な情報の見方の組み合わせが変われば見落とすことも多くあります。

 上記の内田せんせの話もそうですが、やはり本を書くからには「そのときお前がどれだけ真剣に執筆したのか」ではなくて、「お前は読者にどれだけの知見や経験や考え方を伝えることができるのか」が重要なのであって、それはブックファーストの店長に言われるまでもなく品質を考える場合には大事なことだと思います。

 だから、上念司氏がどういう考えで振り付けをしたかは知りませんけど、働く女性としての生き方やスピリチュアルな方向に執筆の主戦場が移っていくと、品質を担保できるはずがありません。”著者・勝間和代”の「本業」はやっぱり金融、会計にあるのであって、マーケティング主導で他の著者に馴れ合ってみたり、売れなくなった女性シンガーとTwitter上で絡むというのはバブルというより”著者・勝間和代”の消費でしかないように感じます。

 ブックファーストの店長は「バブル」という言葉で総括してしまいましたが、実際には「より多くの売り上げを取り、影響力を最大化させるためのマーケティングの失敗」と考えるべきです。「お前に女性論語られても」という話であり、他の著名人と馴れ合ってる日常を垂れ流されたところで読者が置き去りになるだけで、本来の勝間和代女史の価値からは遠かったんじゃないかと。

● [第二章] 茂木健一郎氏の件

 実は茂木せんせの著書は一冊しか目を通しておらず、彼のバブルや品質について語る資格は私にはないのだろうなあと思いつつ。

当事者として
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/08/post-be9f.html

 こちらも「敢闘賞」の話で、要はその時その時全力を尽くしてたんだから批判すんな、という流れであります。結果の話をしているのであって、著者の心意気の話をしてるんじゃないんだけどねえ。でも、伝え聞くスコアが正しければ、の条件付きながら、最盛期からの落ち込みが本当に酷くなってしまった著者のお一人なんですね。アーメン。

 データで見る限り、彼の場合はバブルではなく脱税報道以降急下落したようにも見えるので、判断は保留ですね。参考に、山崎元氏の去年暮れの反応がこちら。

茂木健一郎氏の脱税報道に思うこと
http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/6e84af168bc68da9018cecf711b7a4ec

 店長は「そして点数が多いことでお客さんが何を買っていいか分からなくなり、バブルが弾けました」とあるけれども、どうなんでしょうか。

● [第三章] 勝間女史、アマゾンと戦う

 次いで、勝間女史の発言に戻る。「キレイが勝ち」だったのにアマゾンで負けとはこれいかに。

アマゾンのレビューが荒れやすい理由への考察~そしてアマゾンの対応についての報告
http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/point_of_view/2010/08/post-964b.html
結局、女はキレイが勝ち
http://www.amazon.co.jp/dp/4838720564

 冗談はさておき、これ、ネットにおけるノイジーマイノリティの問題だと思うのですけれども、TwitterであれMixiであれノイズを減らすためのシステムが少しずつ確立していって、著者とその周辺のコミュニティはかなり安定することとなり、そういう圏内に入った読み手は定常顧客となってアマゾンで何を書かれようが大丈夫ということにはなってきたと思うのです。

 一方で、勝間女史のいう問題はまさに一世代前のシステムで運用しているアマゾンの抱える欠陥そのものの指摘であって、どう考えても「キレイが勝ち」を読んでっこないレビュアーでもネガティブな評価を入れられるという点で課題が多いことはいうまでもありません。

 アマゾンはというと、日本支社に評価システムに手を入れられるほどの決裁権があるとは外部からは思えず、一方で書籍流通におけるアマゾンの影響力は増える一方ですから、勝間女史に限らず「どうにかしたい」と思っている出版社、著者は多いと思いますね。うまくそういうニーズが合致するところと糾合して、話を進めて逝ってはどうでしょうか。

● [第四章] 池上バブルはバブルなのだろうか

 思うんですが、出版社もやはり売り上げを上げるためにスコアの高い、コンスタントに出せる書き手に頼みたいという保険をかけるのは当然のことだと思うんです。それ以外に、本来ならばこういう本を手にとって欲しい、品質の高い本はこれ、というレコメンデーションのシステム自体は、勝間女史の言うようにアマゾンも未成熟、本屋の店頭も必ずしも充実していない、ということであるならば、何か違った方法ってのがあるんじゃないの? と。

 同様に、出版点数が多ければ多いほど、読み手は何を読めばよいのか分からなくなり、著名な人の本を手に取るほうが効用が高かろうと勘違いし、結果としてクソボール本を掴まされ、騙された感が満喫されると、しばらく本を買わなくなり、の連鎖はあるように感じます。裾野が広ければピークが高くなるのはマーケティングの鉄則ですが、彼らが何をもって読書をし、何を得て感動したりお得感を得るのかを、いわゆる「有名な著者」や「刺激的なタイトル」以外の何かにも持つ必要があると思うのです。

 本を売るために文学賞があったりしますけれども、今回指摘された池上バブルは売るための仕組みは、テレビという媒体もさることながら、学べるニュースというような基本的な社会の知識の羅列に、日本社会の問題点・危機を視聴者や読者に煽ることで、牛丼に唐辛子を振るような食感を池上本からは感じます。仕組みとしては極めてオーソドックスで、個人的には勝間和代女史が本業として本来やるべき立ち位置をうまく池上氏が「喰った」んだろうと。

 本来は底堅い「経済や社会を分かりやすく解説してくれる」需要を勝間女史から池上氏がリプレースした限りにおいて、ここから目線がずれなければ、よほどの多産で品質を落としたり、いきなりテレビ番組からはずされるようなスキャンダルが起きない情勢なら数年は順調に逝くような気がするんですよね。

● [終章] いまだから読みたい勝間和代文学

 勝間女史の迷走初期のころ、勝間女史の異様な勝負根性と特異な人間性を題材にした短編が次々と発表されるという事件があり、この頃は、ある意味で勝間ワールドの不思議さ、愉快さを「愛でる」感覚がありました。

勝間和代十夜
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%A1%B4%D6%CF%C2%C2%E5%BD%BD%CC%EB
勝間和代十夜の表紙を描いてみた
http://d.hatena.ne.jp/yoneyacco/20090721/p1

 得体の知れない勝間ワールドにいざなわれ、正体定かならぬ、それでいてロマンチシズムと熟年のエロティズム(ォェ)とがめくるめく快感と恐怖を感じさせる、勝間本の読み手の心の揺らぎを表現している作品が多くあります。

[ぼんやり童話]勝間和代十夜
http://d.hatena.ne.jp/ayakomiyamoto/20090616/p1

 作中の勝間和代は強烈だ。もっぱら、主人公が何らかの経緯で勝間和代女史の世界に埋没していき、事件に巻き込まれ、恐怖し、何かを失い置き忘れてしまう。本人が「バブル」と自認したころ、確かに勝間和代女史にはこういう磁場がありました。何か別次元に連れて逝かれるような異質の影響力、それも成功に対する執念であるとか、絶対的な自分への自信・肯定とか、普通に生きていたらあまり持ち得ないような極めて強い自負心があったように思います。

 小説では森に迷い込む少年の心の動きと現状のコントラストで読み終わったときの独特の味わいを感じさせる仕上がりになっていますが、内田せんせや茂木せんせと違って、勝間女史の場合は単なる知識で留まらず、その先の自分のあり方にまで踏み込んで人の心に踏み込んだ経緯があります。少年心ながら、たぶん戦死してしまって帰ってこない父親、生きるために伯父さんとの時を過ごす母親、おぼろげに知る振り返りたくない自分の環境から、恐ろしいけど興味もある勝間の出る森に入ってしまう少年… 問題は、勝間和代女史が、そこまで人の心に自立する生き方を植えつけておきながら、勝間和代女史本人が結局どこへ逝こうとしているのか、得た影響力をどこに行使しようとしているのか、単なる金儲けなのか別の何かなのか、分からんというところを当時から皆感じ取っていたわけですね。

[引用]当事者としては、せっかくいただいたチャンス、それをどうやって最大限に生かすか、考えるのみ、です。今も同じ気持ちです。そして、株価と同じく、さまざまなものは常に、本来価値に収束しようとしますので、淡々と、自分の本来価値を上げることにみなさんと協力しながら務める、それに尽きると思います。

 チャンスだったのかどうかはともかく、最大限に生かす具体的な行動の中身が良く分かりません。人間の自立のためのファウンデーションを始めよう、働く女性やビジネスサイドを支える政治家や都知事になろう、なんでもいいから勝間女史の「あがり」とは何だったのかが最後まで分からないまま、「キレイが勝ち」となったのが最大の問題点だったのかなあ、と。

● [付録・加筆04:22] 或る迷走

 さっき痛いテレビ見たら、こんな記事が。

勝間和代のおっぱい需要
http://zarutoro.livedoor.biz/archives/51505398.html

 なんというか… いや、何もいうまい。