以前、じじい批判をしたところ、当該じじいだけでなく別のベテランの方からも反論を頂戴したこともあり、仕事の一山超えたところでもう一度書きたいと思います。

神々の黄昏というか
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/07/post-b540.html
ソーシャルゲームとブラウザゲーム界隈でバブル発生中
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/06/post-0b13.html
誰しも、人である以上は必ず終わる
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/06/post-0df3.html

 事の発端は、あらすじ的に言うならば物凄くしょーもないことなんだけど、いまさらのようにソーシャルアプリの存在に気づいた最近パッとしない某重鎮とその一派がこれといった企画案もなしに「俺ならもっと面白いソーシャルアプリを作れる」と言い出し、もうすでに市場として終わり始めているソーシャルアプリの開発に「社運を賭けて乗り出すべき」と微妙な発言を社内でし始め、大口の据え置き機向けの企画がなくなって暇しているプロデューサーやクビになりそうなディレクターたちが自分の宛がわれるラインが増えると期待して「ですよねー」と太鼓の達人ぶりを発揮しているうちに実際のオンライン事業を推進している優秀な責任者たちが負担に耐えかねて次々と体調を壊して戦線を離脱する中、気がついたら事業全体の統括が可能なのは外注先であり傭兵である我々だけであった、どうする下期予算! というお話です。長い。
・ コンテンツは水物か

 水物です。とはいえ、確率を上げることはできますし、特定の客層がついているものであれば、その人が旬でいるうちは、何度でも稼ぐことはできるでしょう。実績があり、重鎮とされる人々は、どういう経過であれ一度その水物の勝負に勝った経験があるからこそ、ネームバリューがあり、彼が手がけるのであれば成功する確率が高いだろうと第三者的に判断され、GOを出すための材料となり、仕事になって部下が喰えることになります。

・ 旬を過ぎた大物

 一度、クリエイターとしてピークを迎えた人が、その成功ストーリーを終えたあとで、もう一度、全く別の分野や次のムーブメントの流れに乗ってコンテンツを当てることができるのか? というところが、ブラックスワン的な観点で重要な話になります。

 「ブラックスワン的」とは、まぐれで当たったことを指しますが、まぐれといっても無茶撃ちではなく、その人が持っていた素地が時代にマッチした、消費者が求めているものをたまたま先行して商品化していた、ということもあり得るので、結果的に一発屋的な大物として扱われることになるんです。

 また、旬を過ぎた大物、というと悪弊ばかりがあるように感じられるかもしれませんが、一度成功してみなければ体得できない感覚もありまして、もう自分が新たなクリエイティブを手がけたり主導して成功させることはできないけれども、次に旬になりそうな人の発掘や、旬になったときに「稼ぎ切る」ためにどうするべきか、といったスキルを持ち合わせる場合もあります。これらは主にその成功者の人格による部分が多いんですが、クリエイターで成功した人は人格的にかなりアレであることもあって、あんまり幸せな戦後を送れる人がいないのも現実です。

・ 作品と人格

 当たり前ですが、次の時代に来るクリエイターは、何々をやり込んで、自分だったらこうするとか、こう作りたいというような作品を踏み台にした制作意欲というのを持っています。また、偉大な作品を下敷きにして、リスペクトしながら、より時代にあった作り方をするようになります。自分が熱中し、没頭した作品に対しては信者化するケースもまた多くて、据え置き機からケータイゲー、オンラインゲーム、さらにソーシャルへとメディアの旬が移り変わっても「あの作品のようなタイトルを手がけたい」と願う優秀なクリエイターはたくさん出てきます。

 ところが、彼らがリスペクトした作品ほど、その作品を作った大物クリエイターというのはリスペクトに値しない人格を具えていることがあります。繰り返しますが、当然のことながら作品の質と、作品を作った人間の人格とは必ずしも比例しません。なので、「あの作品を作った大物の彼と一緒に仕事をしたい」と距離感を失ったクリエイターが寄ってきても、大物が彼を使い潰したり手柄を横取りしたりということは往々にして起きます。悲しいけど、現実にそういうことがあるんです。

・ クリエイティブとは誰のものか

 大物とされる人の仕事ぶりを見るに、その人固有の資質や才能でうまくいったということよりも、その大物をその段階で起用した企業や経営者が偉大であったり、大物の自由な発想を現実に商品やサービスに落とし込めるだけの制作部隊が優秀だったために大成功したというケースが往々にしてあります。確かにあの売れたゲームのプロデューサーは彼だけど、彼を起用した上の騎士団長のほうが優秀だ、ということがあるわけですね。

 会社としては「その会社の制作体制が優秀だ」というほうが事実に近くても、モノを売るための技法として、制作者の顔を見せようということで、最近は実名で堂々とクリエイターの立場や発言をメディアで露出させるようになりました。そうしているうちに、だんだんと本人も成功と自分の能力の「間合い」について勘違いするようになることもありえます。最終的には、給料や待遇についての認識にズレを起こし、ポーンと独立しちゃったりするわけですね。で、その後、そのネームバリューで凄い金額で発注かけてしまい、壊滅的な品質と記録的な販売低迷を打ちたててしまうケースもあるんです。

 でも、失敗しても次の仕事が来たりするんですね、大物だから。

・ 知力の問題

 私たちの経験に裏付けられた知識・ノウハウというのは有限です。経験していないことは分かりません。でも、新しい市場に打って出るときに、過去の知識や経験が必ずしも生きるとは限りません。だから、過去にどんなに据え置き機ゲームの世界で成功したとしても、次のメディア、また次のメディアでやってくる別の市場特性やお客様の要望に必ず応え切れるわけじゃない。なので、そういう環境の変化に対して、クリエイターや経営者がどう対処することが望ましいかという単一の「解」はたぶんないんです。

 解がないからといって、変化に対応しないというのはもっとも解から遠いわけで、必然的に環境に合わせてどう対応していくかを考える必要があり、それにいたるために必要なものは、私は知力だと思っています。知力とは、経験したことのない事象であっても、そこで起きる課題や問題について正しい方向に導き出すための力だと私は考えます。

 環境に適応するために起こす変化として、試行錯誤の回数を増やすために少人数制のチームにするとか、他の開発経験は乏しい人を積極的にプロジェクトリーダーへ登用するとか、別会社を作って機動性を高めるといった機動戦のドクトリンもあれば、より成功率の高い強力なIPを持つ他社と組むであるとか、強力な販路を持ったり優秀な顧客リストを抱えるための投資を増やすであるとか、よりグローバルな調達や市場を志向して国内・海外の組織バランスを調整するとか、縦深防御的なドクトリンもあります。

 現場でどれだけ人を殺したかというような戦果を多数抱えた歴戦の勇者から成り上がった著名な大物の威光ではなくて、どこの戦場にどれだけのどういう部隊をどう投入してどこの戦場を捨てるかを考える人なんだと思うわけですね。

・ 老害の条件

 金ばかりがコンテンツではないし、稼がないコンテンツだから無価値と言い捨てるつもりはありませんが、会社は株主の持ち物であり、利益を上げることが目的である以上、ある程度以上の収益性が確保できていないとどのような事業も存続させることはできません。

 いい物を作れば売れるであるとか、ネットやヲタに媚びればこれだけの数字が出るとか、過去売れたこのシリーズの作品であれば新しいメディアでも信者は買ってくれるとか、会社としてこのサービスを提供することは多少の赤字が出ても良いとか、試験的に赤字でもこのタイトルを投入するとか、現場に出ている者からすると「で、それは次にどういう展開を考えてのことなんでしょうか」と言いたくなるような主張をされるわけですね。全体のプロダクトのうちで、少数の何割かは試験的に・先行して進めるのは反対しません。でも、すでにレッドオーシャンになって、各社血みどろの争奪戦をやっているときに「とりあえず、これ出しましょう」とか平気で言う人が多いのが驚きます。

 それを言うのは、決まって社内で実績を掲げて保守的なポジションに来ている大物さんたちですね。傷つきたくないし、何かあったら誰かの責任にさせられるような保身の逃げ道を必ず用意しているんですよ。「失敗してもいいから、この予算でできる限りの品質を出してみろ」というブレない大物は、国内では一人しか見たことがありません。

 まあ、業界的に今後いろいろ動きがあると思うので、チャレンジする人にご武運を祈るしかありません。

※ 補遺

 「ブログに書くな! 直接俺に言え!」→会議中、直接本人に言う→「会議中に言うな! サシで言え!」→電話しても出ないのでメールを送る→「重要なことは直接会って言ってくれ」→アポイントを取ろうとすると多忙を理由にオフィスに来ない→ブログに書く(いまここ)