ためにする議論をしたいわけではないのだけれど、いや、むしろうまくまとまってて良い記事だなあと思ったので。

なぜ、「働く」とこと「内面」がここまで結び付けられるのか?
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100124/1264349181
 一応、私の立場など。就職活動は、4年で留年したので氷河期中に二度やりました。卒業は95年と96年。失われた10年真っ只中で、当時は就職氷河期と言われていました。ただ、私が氷河期だとされた時代の就職活動より、いまの新卒さんのほうがよほど厳しい就職戦線を迎えているように思います。95年はかなり大手から内定を貰いましたが、96年は留年するつもりのなかった二度目の4年生で就職活動に出遅れたものの、それでも複数内定を得るなど、比較的恵まれていました。もっとも、せっかく入った会社は半年で辞めてしまいましたけれども。

 その後は、様々あって最終的に自力で会社を興して現在は経営者として幾つか会社を経営しています。全体で見て、新卒は年間8名から10名ぐらい理数系を中心に採用しています。文系は、英語と数学ができる人のみの採用に絞っている形です。

[引用]それよりも、私が憤りを感じるのは、企業が労働者を採用するときの「自己PR」をどんどん先鋭化させていくところだ。

 いや、PRして貰わないと、その人がまずどういう人なのか分かりませんから、ある程度はやっぱり自分からアピールして欲しいと思います。もちろん、担当教授からも人となりを聴いたり、何度もあって人間性は確認しますけれども、やはり雇うからには教育コストもかけて、長ければ何十年と仕事をご一緒するわけですから、年齢の上下や地位にかかわらず、お互いのことを知っていたいという気持ちは人間としてあります。

[引用]企業に入って、企業の価値観を内面化してくのではなく、企業に入る前から、企業の好む価値観や役割期待に適応するように、「自己改革」を迫られる。

 これは、多少あるかもしれない。組織で働く形に最初はどうしてもなりますので、ある程度、学生が思う企業の価値観で構わないから「社会に出る最低限の心構え」程度は持っていて欲しい、ないのであれば自己改革をする意志は示して欲しいと思います。

 ただ、別に上司の言うことだけ訊けとか、使いやすい奴だけ欲しいとかではなく、自分のプロフェッショナルの方向が決まったら言われなくても研鑽するとか、分からない分野は人に任せて協調して作業分担しつつ大きい仕事をこなすとか、もっと最低限のところでいうと(なるだけ)締め切りを守るとかそういうレベルで。取引先にタメ口はやめてねとかさ。そういうのも自己改革のうちでありまして。

[引用]就活の中で、企業の価値と自分の価値とを相対化しなければならず、「価値のある自分」があるはずだと、内面を掘り進むという作業が就活に組み込まれている。
私はこの仕組みに大変怒りをかんじている。


 うーん、こんな仕組みはあるのかねえ。学んできたこととか、学生時代に熱中したこととか、価値の源泉になる部分は何かしら持っていて欲しいし、持っていたらそれはしっかりアピールして欲しいと思うもんなんじゃないでしょうか。あんまり悪意があってのことではないんだけどな。ただ、新卒採用をするとどっと集まるので、来ていただいた人数のかなりの人は、何らか理由をつけてお断りしなければならない、そういう口実のひとつとして、その人が提示できる価値についてだったりすることはあるかもしれないとは思います。

[引用]そして、本来、企業に入ってからでしか、生成されないはずであるの「対企業用自己」なるものをある程度装備させるために、自分史すら偽装させる行為である。

 これは、大学生などの就職活動に限らず、内申書や受験、あるいはその後訪れる転職など、「対誰か用自己」というのはあり、本当の自分はこうだけれども、立場上別のことにしておこうかというのは生きていて必ずあります。また、他人から評価されずに暮らしていくことなどできないので、評価をどこまで自分の内面に受け入れていくかは個人差がかなりあるだろうと思うのです。

 叩かれ弱い人強い人、アピール上手下手は様々ありますが、叩かれ弱そうなアピール下手の人が、かなり考えて書いてきたと思う「偽装自己」は、やはり多くの人を見てきたなかでは見抜きやすい性質のひとつではあります。でも、だからといってそういう人を門前払いするかというとそういう話でもない。

 企業からすると、組織を率いているわけですから、この人とずっと働きたいか、働く中でスキルを磨いてくれるのか、意義を持って働いてくれるか、お客様のために汗をかいてくれるのか、ありがとうとかすみませんとか人として大事な部分を持ち合わせているかといった側面から見ます。全員が全員見抜けるわけではないけれども、受け手が頑張って偽装していて、取る側がこれを見抜こうとしている一種のゲームのようなもんだと思うわけですけれども。

[引用]「将来、画家になりたい自分」とか「漫画家を目指す自分」とか「建築家を目指す自分」とか「インテリアコーディネーターを目指す自分」という確固とした文脈を持った中でしか生きていけないのではないかと。

 考えすぎだと思うんですよね… 美大卒だとか、医学部卒といった専門性を身に着けた人々はそれ相応の道というのはあるのだろうとは思いますけれども、大卒だったらやりたいことをやって二十代後半になってしまったとしても、それが糧となってスキルになったり人脈を得たりで、まったく別の道に進むことだって不可能じゃありません。前に雇っていた優秀な営業の人は、大学を8年とかかけて出て、社会に出たら二十代後半で、全然関係ない分野で結果を出してから高齢でIT分野にやってきましたが、あっという間にキャッチアップして、いまではベンチャー大手で立派に働いてます。

[引用]評価基準もあいまいなまま、なぜ、合格したのか? なぜ、不合格なのか? すら不明なまま、「合格する」ことに向かって、内面を企業のために統制していく。

 これは、職を得ることがゴールの場合の考え方で… 実際のビジネスというのはそういうもんじゃなくて、もとから合格とか不合格とかそういうレベルの話じゃなく、コストがあってお客様候補がいて、何らかの理由で売れない、コストをかけてしまって残金がこうなった、ではどうするかという事例の繰り返しです。なぜ合格か不合格かの原因を内面にだけ求めていては、いつまでもビジネスにならんのもまた事実です。

 内勤で経理だ企画だというセクションであったとしても、どちらにせよ試みと成果の繰り返しが発生しますしね。

 まあ、あとは社畜というか、言うことをきちんと聴いて組織の一員となりきることを求める企業もあれば、その人なりのパフォーマンスを集積してひとつの物事を作り込んでいく企業もあります。ただ、どちらも頑張ったから偉いと評価してくれる他人はあまり存在せず、何らかの実績や結果を残すことができて初めて生き残れる、評価されるといった側面はあるように思いますね。

 エントリーシートの件はいろんなところから話が出るけれども… 採用枠に比べて応募者が多いから、振り落とす口実に使うためにエントリーシート至上主義的な見え方をされるのだろうかねえ。かなりの部分、単に選考上の問題です。