何か刺激的な表題ですけど、基本的なところというか、金融を生業としている人でも結構ベーシックなところの理解が共有できていないことが分かったので。



 もちろん、私も経済学そのものを体系的に深く学んでいたわけでもなく、読書や業務の中できっとこういうことなのだろうという経験則を当てはめながら理解しているので人のことを言えた義理でもないが… ただ、社会保障論とかで紐解かれる一般的な経済思想が分かっていればそれほど理解が困難な世界でもないし、(あまり理系文系で分けるのは好きな論法ではないが)数理的なモデル論を知らなくてもある程度の政治的分配について見識があればそれほど齟齬が起きるような話でもなかったろうと思う。


 「私自身は保守主義者ではあるけれども、グローバリストではない」という姿勢に質問というか批判されましたが、その国や地域に自律的な経済システムが存在しているなかで、フリードマン流の自由貿易原理主義のようなものが暴力的に介入して過大な流動性を持つ市場を駆使しながら地場の富を収奪し、市場から流動性が失われる危機が演出されたときに誰よりも早く逃げ散ることに対する批判(とりわけヘッジファンドに対する規制を声高に叫ぶ先進国の金融政策担当者)は私は一理あると思ってます。


 証券市場にしても、教科書的には企業は株主のものであるということには賛同するにしても、その国や地域でビジネスを行い雇用を創出しているからにはそこの社会に対する社会的責任を企業は負い、その見えようとして、従業員重視の経営方針や、顧客に対する徹底的なサービスの追求のために株主利益を後回しにする経営方針というのも許容されるべきだろうと考えるからです。


 これは従来からの産業、すなわち設備を必要とする製造業や流通、小売業のような業態だけでなく、IT産業やサービスなどの領域でも地域や顧客、従業員、環境などに対する積極的な関与とコンプライアンスの遵守というのはビジネスを行っている地域にあわせて行わなければならない責務があると思っています。それは、そこで暮らしている人々やその根底に流れる風習、文化というものに、企業あるいは市場がどういう互恵的な関係で「乗っかっているか」を重視することで、社会が適切に市場の調整能力を使いながら経済効率を上げることができると考えます。


 すなわち、その国の経済というのは世界標準の市場があってそこからハブ的にぶら下がるものではなく、あくまで従来からの社会、経済の流れの中に市場というファンクションが調整弁として働くというモデルを「より良いもの」と考えるのが保守主義的なアプローチだろうと主張したいのです。当然、そこには旧態依然とした規制や商慣習などの問題がその国や地域の経済効率を下げ、結果として国際競争力の喪失という形で国益を損なう結果になるという議論もあるわけですが、市場をある種の原理主義的な機構の対象として祭り上げ、極端な市場原理の元に生産性の向上を目指して国民間の所得など社会が本来兼ね備えていた調和をないがしろにすれば、結果として社会コストの増大を招き暴動の絶えない国になるでしょう。


 ある種のクライシスマネジメントの一環として、例えばジンバブエやチリ、イラクのような崩壊した秩序の再建築(リビルド)を目指すということであれば、一時的なハイパーインフレの引き換えとして効率的な経済システムの萌芽を育てることは可能でしょうし、すでに秩序ある社会に立ち戻るためのコストを吸収することもできるでしょう。なぜなら、すでに社会は混乱しきっているからです。


 でも、(いまさらながら、という言葉を使うべきかどうか悩みますが)日本がこれからさらにグローバリズムに対応するための規制撤廃を進め、移民を奨励し、経済効率を高めていくのだという議論を立ち上げるのは、どちらかというと反対です。日本人は閉鎖的だ、経済効率面で立ち遅れ少子高齢化が進む現在、このままでは日本は駄目になる、というような主張はあまり賛成しません。そもそも論として、ここ20年ぐらいのアメリカの経済成長とそれに伴う国際的な流動性の増加というのは、何の裏づけがあって為されたものだったか、結果として誰がグローバリズムの利益を享受したのか、はっきりしないからです。


 いや、はっきりはしてるんでしょうけれども、まあ、いろんな人がいろんな見方をするでしょうから、ここでは書きませんが。でも、良かれ悪しかれ、この国だけでなく世界中が国民の求心力を高めるべく社会を統制する方向へと向かおうとするでしょう。もう世界の富が増大する前提で国家の経済を設計するような、楽観的な世界観は終わりつつあります。というか、終わってるでしょ。


 好むと好まざるとに関わらず、おそらく向こう10年ぐらいは「国民の生活水準が切り下がる」局面に入ると思います。資源高とか、ガソリンが、とか、生鮮食料品の値上がりとか、そういったレベルの話が断続的に、ゆるゆると10年ぐらい続くと思うのです。それでいて、賃金は上がらない。なぜなら、置き換えのきくスキルを持つ労働者は海外と戦うから。で、国内生産を保つために移民を奨励しましょうという議論になるけど、それは国内の日本人の職が奪われることとなる。それはつまり、国外に職を奪われるか、国内にいる移民に職を奪われるかの違いでしかないでしょう。


 そうであるならば、経済効率を上げていくということは字義的に、”下級国民の賃金を「国際的水準に」引き下げ、世界を向こうに競争してまいりますという、高度成長時代の日本と同じ文脈での果て無き戦いに従事しますよ”宣言にほかならない。別にいいんですけど、私は、でもそれは世界の富が増大しているという前提ならば多少は未来は明るいかも知れないけれども、現実はまったくそうではないのです。


 グローバルな競争に勝ち抜くために、移民を奨励するというカードを切るのは、勝って利得が見えない勝負に手持ちの全チップを張る策にしか見えないので、保守主義的観点から見ると賛同できない、というだけです。とてもじゃないけど、日本人が膨大な移民、例えば全人口の5%なり10%なりを受け入れる、というような心構えを総意で持っているとは思えない。


 移民の話が分かりやすいからそればっか出したけれども、放送通信行政であれネット規制であれ金融行政であれ、だいたい根っこは同じところにあるように思います。9条(改憲)の話もそう。世界経済が衰退しそうである、そのとき日本は統制するべきか開放するべきかという選択の問題だ。国内のベクトルと同様に、親米路線を前提とする場合、日本の繁栄を維持する最善の方策を何に求めるのかという国外の問題もあります。


 個人的には、リスクを減らすべきだと思う。というか、日本にはこれ以上のリスクを抱える余地がそれほど残されていない、すなわち、賭けられる資産が少なくなっている状況があるように思います。このあたりは異論もあるだろうから何ともいえないのですが。ただ、直近では経済の問題でとりわけ中国経済のクラッシュはまあ八割がたあるとして、アメリカ経済もかなり長い期間後退するとして、日本だけが株価14,000円維持して笑顔という話には絶対ならない。それはそうでしょう。では、グローバルにおけるマイナスの成長を、各国で押し付けあう形になる、と考えたらどうなるだろう。そこに正常な市場原理が働くと思いますか?


 財界人が大きく誤解しているのはそこでしょう。原理的な市場にフェアが絶対的に存在すると思っている。投機的な仕組みに翻弄されて一国の経済をズタボロにできるグローバリズムが、ある種の神、信仰の対象になっているとしか思えないのです。神からこれだけの恩寵を蒙っている多国籍企業が、一生懸命政策担当者をオルグして回っているような状況です。それがいけないというのではないが、そもそもが無理筋なんだろうと思うわけですね。


 突き詰めてしまえば、成長しない経済下で家計と企業というのは潜在敵で、企業が国際市場での収益性を高めようと思えば家計を押し下げるほか方法がない。家計を押し下げないように競争力を確保する方策は企業では達成できないから、当然のことです。では、国家が競争力を確保するための政策をどう立案するのか? 放送通信行政でもいいや、市場対策でもいいや、テロ対策でもいい、ぶっちゃけ税制でもいい。どうこの国の経済の形をデザインするんでしょうか?


 これは、たぶん、日本の選択として、本当にどうにもならなくなるまで何もせず動かない、という選択肢を選ぶでしょう。日本とは、そういう国家であり社会であり国民であると私は思っています。だから、原理原則のところだけ大枠を決めておいて、それまでに政治的な頚の部分は極力シンプルにしておいて(暗部を暴いておいて)問題点の整理と解決の道筋だけでも考えておくのが一番効果的なんじゃないかと考えられます。それこそ、政治的再分配はどのあたりが日本として適切なのか、社会的移動性はどうなのかというあたりは、もっぱら政治の領域とはいえいろんな議論のバリエーションが発生しえます。


 用意するだけしておいて、実際に起こるまで何もしないというのが、おそらく日本社会の持つ固有の知恵だと割り切って、迂闊に割を喰わないような外交的、安全保障的な部分だけ整理したほうがいいんじゃないかと思ってるんですけどね。