いま、奥さんがしゃわーに入っています。


 そんなもんだろうと思ってはいました。大多数の成年男子がはるか前に経験しているだろうことを、三分の一世紀以上生きた私がいまさら通過することを、大多数の男子は哂うのでありましょう。


 でも童貞であるがゆえに、いろんな妄想もいろんな大事な経験もしてきました。誇るでなく、照れるでなく、誰もが歩んできた道を鮮明に脳裏に刻みながら、一歩づつ前に歩いてきました。もういいんです。数学的には誤差に近い存在であったとしても、世の中これだけの人が居て、確率がわずかであったとしても、それが私だったことに何の恨みもありませんし後悔もしていません。


 それでも幸せな結婚生活が、いままでの私の人生の延長線上には絶対にないだろうなと思っていたことが、目の前に実現していることそのものが奇蹟なのであって、それを当然のように思うことそのものがおこがましいと思っています。でもやはり本当に大丈夫なのかという風には感じます。君、本当でそれでいいのかみたいな。


 あれだ、婚姻届を出すのに、親父の戸籍から私が抜けるわけですけど、戸籍謄本に書かれていた会ったことのない見覚えのない兄弟の名前が書かれていたのを見て、嘆くでもなく、人の人としての営みというのは理性だけで支配されているものではないのだということを改めて知りました。初夜はないのかと奥さんが泣いていた夜も、そこに何ら断る理屈もない以上、知って致せない自分が罪なのだということも悟りました。


 35歳にして初めて非日常中の非日常が訪れたこと、それに戸惑いというか、滅多に緊張することのない、むしろ人を喰うことで自分の性質であることを自認してきた自分らしからぬ事態が訪れていることを哂ってください。人間の営々たる営みを第三者目線で見続けてきて、結局今日ここにいたって我がことになって狼狽している自分を蔑ってください。頭では分かっていながら行為に結び付けられずに様々な機会を逃し続けてきた私の到らなさを責めてください。でも私には私なりの、人はそこに誠実さは感じないまでも私なりの生き方がそこには確かにあったことを忘れないでください。


 この文章が誰に対して書かれたものかについては聞かないでください。たぶん書かずにはいられないから書いているんだろうし、推敲もしないし、推敲する勇気もないのは分かっています。だからこそ、だからこそ先にも述べたとおり、結婚をして結果はどうあれ私より先に一家の主としての営みを進めているすべての男子を私は無条件に尊敬します。私がたとえもっと若いころに女性を好きになっていたとしても、事実好きになっていたけれども、そこで衝動に駆られて何らかの行為を致す時点で私ではないのだ、それでいて、なぜいままで私はそういう行為から自分を遠ざけてきたのだろうという疑問がもたらす自己矛盾、それも後悔や惜別のような過去の否定的な念ではない、自分の自分たる存在意義というかアイデンティティの大幅な変更を前に、戸惑い続けているのを哂う資格があるのは先に結婚し人間としての正当な営みを続けている人々です。


 これからそちら側に逝こうと努力しますが、だめならだめで哂ってください。これはもうだめかも分からんね。いろんな意味で。無条件に、私をいま包み込んでいるすべての社会とそれが織り成す存在に感謝するほかありません。いま祈っている、奥さんがしゃわーからあがる時間が一秒でも先になることをという内容が、超越した何者かによって徒労に終わらんことを。