情報カスケードという言葉があって、まあ一般的には「情報不足の状態から積み重なる判断が、最終的に真実とは程遠いまったく違った結論に至り、それが信用される過程」って意味合いで使われるかな、と。


 で、まず亀田問題を例に取るけど。フルボッコ先の対象としてのクオリティは非常に高い。日本人はたいていああいうのが好きではないが、目新しさを感じているときは持ち上げられて注目される傾向にある。日本人でなくてもそうだ、日本社会以外でも存在する、という議論もあるけど、まあその辺は広告業界に詳しい人がそのうちはっきり否定するだろうし、そう思っている人はその他大勢だろうからまあいいや。


 私の思うところ、社会問題としての亀田問題というのは、放送法で公的に保護されている業界であるテレビ局が、反社会勢力と結びついて興行を行っている亀田ジムを持ち上げ、その過程で、公共の電波に暴力団が一同に介している映像を国民に流した、ということ。TBSは非常に問題があるように思う。


 それ以外はどうでもいい。ボクシング協会の憤りであれ亀田父の謝罪であれ、それはボクシング界というエンターテイメントの一分野で起きたイベントでしかないから。もちろん、ボクシングに興味があって、正常なボクシングとはどういうものであるかを議論したい人はおおいに論陣を張ってもらいたい。


 亀田問題に関していうと、まあ遠回しに書くけど一般週刊誌がまず亀田叩きの地ならしを一年弱ぐらい前に打った。その時期はTBSもスポーツ紙も万歳とはいかなくとも好意的な記事や放送をしてた。GRPみたいな指標では出てこないけど、恐らく国民間の知名度でいうなら80%ぐらいを超えたあたりから両論併記含みの叩き記事が出てくる。総スカン、大バッシング、フルボッコに至るまでの間は、亀田ジムや協栄ジム、TBSやプロデューサーなどのお金の動きや怪しい人脈がありそうだねという公益性のありそうな話題に限定された。


 その後の経緯は諸氏ご存知の通りだが、問題となるTBSを超えて、別の陰謀論みたいなものがまことしやかな情報通の手によって提案され、情報カスケードが起きる。その舞台が関西系の情報トーク番組やワイドショーであるケースもあるし、ネットで発信される無秩序かつ無責任な情報が基点となるケースも見られる。


 しかも、こういう「情報不足による情報カスケード発生の基点」はいろんなとこで見られる。はっきり書いてしまうと、先日、内田樹氏が自身のブログの中で「たたかえ! 公安調査庁」と題した記事をアップしていて物議を醸した。率直に言うなら内田氏のエントリーは単なる邪推と誤報であるが、内田氏は特定の方面において類稀な知識と教養を兼ね備えた第一線の知識人であって、当然それに耳を傾ける人は出てくる。


http://blog.tatsuru.com/2007/06/19_0843.php


 しかし、内田氏はその手の情報工作や諜報について詳しいわけでも経験があるわけでもないことは自明であって、単に「公安調査庁長官が逮捕された事件を聞いて、そのとき思ったことを書いた」に過ぎない。ブログを含めネットで何かを書くことは言論の自由であるから、意図があろうがなかろうが、事実であろうがなかろうが、書いちゃっていいのである。


 専門家ではなく何の知見もないのに見解を披露したとき、その人の専門性を信頼する読み手からすると一定の説得力を持ってしまうケースは存在する。論述であれば幾つかの論旨が同時に成立しあとは価値観であるから良いとしても、事実関係がある程度はっきりしていて、その背景も専門家からすれば常識的に看破できる内容でも、別の方面の有識者だがその分野では素人という書き手が撒き散らした偽情報が真実であるとして流通してしまうわけだ。


 実はテレビもコメンテーターとして決して専門分野としてカバーしていない人でも絵にしなければならないので議論達者や著名な有識者を呼んでコメントさせて論調を作る、ということはやる。TBSに限らない。新聞だってそうだ。だが、既存のマスコミがそれらをやりすぎて、国民の議論を誘導しようとしてきた歴史が崩れつつあることは誰もが知るところであり、結果としてマスコミ不信にネットユーザーが陥っていく理由となった。ブログであれ2ちゃんねるであれMixiであれ、既存マスコミとの相互補完&カウンターとして発展してきたのがネット社会史じゃないかと私は思う。


 その2ちゃんねるであっても、一種の宗教的ともいえる思想として「2ちゃんねるには稀に関係者や事情に詳しい者が書いている」という考えから、一次情報にアクセスできず、一般のマスコミも信じず、これといって信頼できる教養を持つ者も周囲にいないネットユーザーが「一番面白いネット上の事実」を拾い集めて既成事実化していく過程が見られる。内田氏と内田氏を信頼する読者という関係以上に、あるいはテレビ番組の専門外コメンテーターと視聴者という関係以上に、より複雑な情報の輻輳が発生し、さらに亀田問題の場合は探偵ファイルのような外部サイトとの連関でソースの相互引用が行われ、結果として亀田問題というのは知れば知るほど奥の深い化け物のような超重要事案のような展開になってしまった。でも、本当の社会的問題は「亀田のお陰で暴力団幹部がテレビに映った」ことであって、興行の世界に暴力団がちらちらすること自体は亀田問題に限ったことではないし、一部上場企業でも暴力団幹部との接点がある会社があるだろうし、テレビ局自体が暴力団との何らかの関係がない限り番組を制作し続けることなどそもそもできない。必要以上のバッシングは「とりあえず何でも叩け」のヒステリー状態とあまり変わらないように思う。


 さらに、本当に関係者であれば、マスコミの誤報ならともかく、ネットなどで流れている情報をことさらに否定することなどできない。先の例で言うなら、内田樹氏が流した誤報を、現役の公安調査庁職員などが「誤報である」とブログ上で論戦することはありえない。具体的に、”緒方元長官が朝鮮総連捜査上必要な囮であって「直接公安調査庁がやったのではリークしたときに大変なので、緒方元長官という『ダミー』を経由した」土地取引がバレたなどということは事実ではありませんので内田氏は情報を撤回、削除し反省してください”などと公安が求めることなどありえないわけだ。だから、自主的に削除されない限り、内田氏のネームというか信頼感とともにネット上には誤報がいつまでも残り誰かに参照される可能性がある。それが良いとか悪いとかではなく、そういう状況にいまのネットはなっているのだから仕方がない。私だって結果的に誤報だったものをエントリーでたくさん書いているし、一方で面白くない読物はいくらログが集まっても誰も読まない。構造的にそうなっている、としか言いようがないのだ。


 これと同様に、2ちゃんねる上で展開される陰謀論がネットユーザーに信じられたとして、それを陰謀の槍玉に挙げられた個人や組織が公式に否定するということなど考えられない。よく朝日新聞が2ちゃんねるに叩かれるが、朝日新聞が2ちゃんねる発の情報に対して紙面でことあるごとに否定することもありえない。近いうち書くと思うが、初音ミクにおける電通バッシングは、間違いなく情報カスケードそのものであって、ネットユーザーが「こうであったら面白いな」と考えたであろう虚構以外の何者でもない。電通も嫌われたもんだと思うが、2ちゃんねる発の情報ではそうなっても、ブログではあまり電通陰謀論をまともに書く人は見当たらない。たぶん、場にある情報の「質」と書いている人間の「質」にはある種の相関関係が強く存在するのだろう。


 亀田問題で敷衍して書くなら、じゃあ細木数子はどうなってしまうのかという話も考えておかなければあまりフェアな議論とは言えない。すでに数多報道されているように、具体的な被害者も散見される文字通り経済事犯、悪く言うと詐欺まがいの事件に関与したとされる問題人物が周囲にいると言われる。


 しかし、亀田一家が文字通り滅ぼされて、細木数子がなぜいまだにテレビの画面に映っているのかという事情について、「細木数子は数字が取れるから」という抽象的な議論以上に解説できる有識者は少ない。政治家じゃあるまいしタレントの古傷を触っても始まらないし、そこも含めて魅力といえばそれまでだが、前述の通り放送法に基づいて実施されている許認可事業であって、スポンサーもついて放送されているのだから、なぜ亀田はNGで細木はOKであって、それ以外のNG/OKにはどのようなメカニズムが働いているのか洞察しなければ、私たちはいつまでも良く分からないものを持ち上げられて崇め、良く分からないプロセスで叩きにまわってフルボッコして悪党が叩かれつくして頭を下げる記者会見を見ながら溜飲を下げるという千年一日の如き人の顔をした情報消費を強いられることになるのかも知れぬ。


 結論を言うなら、私ら人間一人が社会で流通しているすべての情報の真贋を見抜くことなど、土台無理な話なのだ。


 だから、それが正しいかどうか判断つかない分野の必要な情報は、必ず誰かに依存している。知らないことそのものが悪いのではない。むしろ、知っている人を探す努力を怠ることこそ、本当の害悪なのではないだろうか。