雑誌の対談で激作家の人といろいろ話し込んでいたんだが、児童文学作家は次々と一般文学やエンタメで活躍するのにラノベ方面で売れた人は結局長続きしませんという話になり、うるせー馬鹿という流れになった上で、議論の結果、ちと言い方は悪いが、表題の通りのような結論となりましたのでご査収ください。


 ヲタが持ち上げ様式美となってるツンデレってのは、女との経験が乏しく脳内世界観で完結した経験の浅い読者が女性描写を満足にできず不当に持ち上げられているだけのものだ、ってことでありまして。


 ただし、私が言いたいのはヲタというのは欠けている表現や不充分な記述を脳内妄想で補完しながら自分の好みや都合の良いように修正しながら登場人物や世界観にのめり込んで逝く性質が強い。ちょうど、えんぴつ書きのラフ画は見る人全てが一番都合の良いラインで評価してしまうため、仕上がりや塗りを見て「なんだこりゃ」になるのとほぼ同様のことではないかと。


 私はそれはそういう市場がそのような様式を持っていて、特に中高生のような若い読み手が中心となって勢いのあるなしが決まっている状況だと、映像や文学の「プロ」が思うかくあるべしとはズレていくのは致し方ないことであって、そこで”読者の啓蒙”だの”レベルの引き上げ”だのというのはどうも賛同しかねるなあ、と。同時に、読み手に甘える書き手が悪いとか、ユーザーの審美眼の悪さや表現の画一性によりかかった出版社や編集者のレベルがどうこうという話になると、副業ライターである私なんかは「しょうがねえじゃん、世の中そうなってんだから」と思ってしまうわけです。


 あと、やはり出たのがそれ界隈の分業制について。これはもうしょうがないと思うんですよね。以前、筒井康隆氏の小説でもあって、その後東浩紀氏が筒井氏に某小説を読ませて品評を聞くというような流れで興味深かったんですけど、レーベルのやり方にもよるもののライトなエンタメ志向の作家としてかどうでないかに関わらず、職業物書きとして一人で食べて逝こうとすると、どうしても多産体質にならざるを得ません。


 ストーリーテラーとしてどうなのかは別として、スター作家が構想から執筆から出口政策まで全部やるケースもあるものの、やはりいくらか、あるいはかなりは分業になっていく。一人の名前で作家が長編を書き上げるのに数年かかる場合、その人がどれだけ出世作を持ち二次利用が幅広く行われ評判が良かったとしても、その後の読み手がちゃんとついてきてくれるのかという問題があるわけです。だとするならば、文章力や表現があるけど社会に評判を受け続けるような作品を”量産”しようと思ったなら、己が弱い才能の部分を外注に出さなければならない。


 広告代理店が丸抱えみたいな感じで原作をこさえて出版社が出口政策を邦画に決め打ちするような場合とかもいろいろあるんでしょうが、やっぱりテーマや設定は編集者やブレーンが「こういうのでやりましょうよ」という仕掛けを作って作家を誘導してやらないと”量産”ができない。逆に、当初は充分量産できてたはずの作家が、数年経ずして枯渇して次の展開を模索しようにも素材がないという状況が到来する。


 そうなると、作家が手がけているのは「作品」なのか「商品」なのかという永遠の命題になる一方、昔ながらの名前のある作家が実質刷り部数二千部か三千部で印税だけは二万部ぐらい支払っている、なんていう生活費補填みたいなことが平然と起きるわけですかね。まあ、具体的に見聞きしたわけじゃないので実情は知りませんが。ただ、一番お金になる出口政策、例えば「誰それ主演で映画にしやすい素材を単行本書き下ろしでお願いします」みたいな話があったとして、いまのライトな作家が素材や設定を用意されてなお書けるかどうか? と聞かれると、やはり唸ってしまいます。


 だから、児童文学というかヲタ向けラノベの世界やテレビドラマ切り出し見込みの漫画なんかは、もう仕掛けを伴ったマーケティングであって、そこに文学性とか書き手の個性とかどう求めていくんだというのは二の次となった主従逆転の状況が続くんでしょう。逆に、出口である邦画ってのが最後のDVD販売という粗利の大きいはずの業態に依存しているにも関わらず意外に金にならず、国際的に知名度の高い日本人俳優も育ってなくて螺旋状にしょぼくなり続けて逝ってるのもあるんですけど。日本人なら98%知ってる某SMAPがアジアでは12%程度の知名度で、欧米圏に至っては当然のように誤差の範囲であり、素材が西遊記で売上のほぼ過半が日本市場という状況で、ハリウッドに立ち向かえるコンテンツを製作して逝きましょうそうしましょうといっても「無理だろ(ぷ」という話に。


 逆説的に、日本人的美的感覚は世界に通用している状況であるため、アニメの世界ではかえって知名度の低く演技力も乏しい日本人俳優を使わなくて済むという理由から、まだ健闘する余地があるのかも知れず、といっても某米ソフト流通はコケたわけですが。


 だから、ポストテレビ構造とかいって、安価な娯楽装置の王道だった許認可伴う地上波テレビのシステムが電通などと結びついていた構造が崩れつつあって、その先が携帯電話だネットだといっても、その先にいるのはプアな人たちが鈴なりになってぶら下がっている構造であることに変わりがない。youtubeやニコニコが究極には権利者の受益が伴わない限りは螺旋状にしょぼくなり続ける下り階段の先でしかない可能性はあります。だって金を払わないという意味合いにおいては、winnyつこてる連中やワレザーどもの精神構造と変わらんだろ。フリーライダー以外の何者でもなく、角川グループとか先行的に試す企業は出てもJASRACやテレビ局大勢が支持するようなポストテレビ構造として地上波に置き換わるとは思いにくいわけです。一種、白田せんせが書いていたこの流れと近いかもしんないけど、まだ私は分かっていません。あれ、ブクマしといたんだけどどっか逝った。


http://wiredvision.jp/blog/shirata/http://wiredvision.jp/blog/shirata/
http://wiredvision.jp/blog/shirata/200708/200708081049.php 


 何にせよ、コンテンツ業界全体の構造が特殊な日本市場に依拠する企業、商品、サービスがマジョリティである以上は解決すんのは無理。ジャパンクールとか、世界に誇るヲタ文化とか、特殊であることに甘えている(甘んじている)うちはどうにもならんと思います。


 アニメスタジオが上場してコンテンツファンドが立ち上がって少しは状況が改善するかと思ったら、全然。むしろ潰れそう。私たちのGDHとかはどうなってしまうの。そのうち音楽業界とかも書くけど微妙な感じはします。


 なお、今日締め切りの原稿はまだ一行も書いていません。