率直に言うと… 読むんじゃなかった。
 正確に言うと、「いま」読むんじゃなかった。


 以下、雑然と書く。読み終わってネットや読書家の意見交換などにあって、この作品自体は微妙な評価だし、やはり文学界そのものを扱っていることも関係しているのか好意的にせよそうでないものにせよ書評自体があまりない。文学の危機を筒井流にアレンジして、前の「大いなる助走」を補完する内容になってますね、でだいたい終わり。たぶん著者本人も誰かにこれを論じてもらおうと思っている節もなく、綺麗な投げっ放しジャーマンで終わるあたりが「なるほど」といううねりを感じさせるに留まる。あれはそうしようと思ってできるもんじゃないだろうと言う意味での「なるほど」だろうと私は勝手に解釈した。たぶん、書いてる途中まで画期的で前衛的な何かをしたかったのではないかと感じさせる。途中、登場人物である作家の創造した作中の人物が仮想の巨船上で会話してる時点で「筒井康隆」本人の照れながらの登場は予測しなければならないのがアレで、その本人が矢鱈憤怒している北宋社の『満腹亭(アナーキーなレストラン)へようこそ』にいたっては、amazonで普通に「新品3点」とかいって普通に売られている。一刻も早く差し止めておくべきである。野放しにしておいてはいけない。新潮社は人権蹂躙雑誌を編む前にどうにかしてやるべきだ。爺さんももっと頑張れと思う。


 で、二度読んだ。何で二度読んだのかというと、あとで思い返してみて、あの出来事は船上のことだったのか現実の、例えば文壇バーでの話だったか読者も亜空間に放り出される類の不整列に陥ったからである。気になって仕方がない。歴史小説じゃあるまいしそういう読み方に意味があるのかどうかと問われても気になるのであるからやむを得ない。道中、変なのというかキチガイが出てくるんだけれども、冒頭に何かの発生を予見させるキチガイなりの文学とエンターテイメントとの間にある相克ってのは効いた。筒井康隆氏自身がその時点で言いたいことが詰まっている以上、読んでいてどうしても「そういえばそうであるかな」と読み手の現実と逝ったり来たりをしないとそのアジテーションなり論立てなりが最終的に何を伝えようとしているのか、あるいは読み損ねてしまってないか不安になる。


 筒井的世界が巨船をあしらって危機を演出した対象は文学界だったが、本作品で規定された枠はひたすら文学についてであってそこと連関した映像業界やラノベといった微妙なポジションにあるものはサブ構造として位置づけられている。作品の大量生産、それに伴う浅薄化、質の低下、商業主義的価値観との相克というのは筒井氏自体が経験してきたものの延長線上にある立ち枯れ状況であって、筒井氏からすると必死こいて胃に穴開けてまで頑張ってきたのに振り返ってみたらまともな作家がおらずろくな作品も書かずただ文学賞が売らんかなの精神で適当に乱発されて十代の少女がくだらねえ小説で賞受賞してその後はパッとせずで若手作家はろくに文芸作品読まずにつまんないラノベやエンタメ小説に進出してテーマが枯れればそこから脱出する手段さえ用意できずミステリーにいたっては前衛も技巧もろくにない作家が次から次と出版社の都合で世間に送り出されてはその質の低さを読み手から呆れられて読者離れをおおいに引き起こし末期的だからとりあえず文学的巨船を構築して本人登場で北宋社馬鹿野郎という話である。


 ところが、筒井康隆氏がご本人のいる文学界で起きている現状を正確に把握し、小説の中で的確に指摘しながら作中人物に語らせ描写するほどに、実はその筒井氏の持つ価値観というか、文学の絶対性みたいなものに関する違和感を想起させる。しかも、その違和感には何の不快も感じない。なぜなら、筒井氏が指摘し危機と感じる文学界の出来事は、全くの相似形としてテレビバラエティであるとかドラマ、演劇、ラノベ、アニメ、野球、ゲームといったあらゆるカテゴリーでいま発生している現状と悉く符号するからである。


 筒井氏が生きてきた文学の荒廃を嘆くのとほぼ同じ意味合いで、テレビ局の経営者が”テレビ番組制作能力の減退が若者のテレビ離れを起こし、低俗な番組で目先の視聴率を稼がなければ株価を維持できない悪循環を引き起こしている”と株主総会で堂々と言ってのけてしまうわけだし、演劇にしても少ないパイの奪い合い現象が続きすぎて切磋琢磨どころか疲弊したところから脱落していく傾向が顕著な一方で劇団四季なんてのがあってどうなんだよそれという話であるし、筒井氏が批判するラノベやエンタメ界隈は若手作家の切り出しがすでに一巡してしまってイラストに頼る売り方を経由したあと今では編集者を中心とした”分業”とも言うべき作家性無視のキメラが大量に出てそれどころではない状況になっているし、まあどこも概ね似たような感じなのである。そのような世界で、ロシア文学における美と善の一致という価値観がどうの、私が好きなキケロが死に至る病についてどうのと語ろうものなら付き合ってくれる人自体が少ないのも当然と言えば当然の帰結なんだろうと思う。相手、そんなの知らんもの。岡田斗司夫氏がどっかで「オタクは死んだ」とか言ってしまって、いままでさんざんオタクで飯を喰ってきていまさら何を言ってるんだと批評されていたのを読んだが、あれだってオタクという文脈で言う過去から現在に繋がる作品の系譜、伝統というものが短いながらも存在してきていて、若いオタクがブームに乗った作品の上っ面だけを取り上げてパンチラがどうだキャラ萌えがどうだとただひたすらに性欲と衝動だけで消費を続けていく現状に対して従来の知的枠組みがどう対処していくかを熟考した挙句、挫折に至ったものだと考えるのが正当に思える。本当はどうなのかは知らん。だが、私たちがいま嗜好しているもののオリジンに対する造詣や、少なくとも敬意を抱くことなしに、単に消費の材料として積み上げて逝き、知性ある文化財にしていくことへの期待を持てないのであればそれは単なる商品であって文化ではないよな。


 ネットの時代になって、文章読みとして人材がプールされているような機能、あるいは、野球好きが野球についての理屈や見方を吟味するような機能が、お手軽になった反面、大量の浅薄な情報によって埋没してしまって深く掘ることが不能になってしまったようには感じる。その場が面白ければそれでいいのであって、その場を面白くするために素材を適当に商業著作物から引っ張ってきて張り合わせて文章なり画像なり映像なりにして無料でバラ撒いて同好の士同士安価でお手軽な面白さで時間を共有できればそれでよいという暗澹たる状況になっているのは筒井氏の作中での指摘通り。それについては何も文句はない。しかし、それは小説と言う枠内で為される社会批評、口の悪い人間が言うならば仲間内での業界批判でせいぜい部数一万部内外でやるべきものではなく、むしろ筒井氏が業界の成熟と共にあったことに対する考察の一切は「哲学」に類するものであると思う。1952年のアメリカ大統領選挙みたいなものだ。「知性」と「俗物」の対立の上で反知性主義が沸き起こる中で置き去りにされたものは知性を支える知識や教養とはそもどのようなものであったのかという規定である。筒井康隆氏がやろうとしていることは、自身を小説に出陣させることではなく、より体系的な知識や教養を構築するための哲学を適切な形で表現することのようであって、そうしようと思ってできないのか、できるけど何か面倒があってやらないのかよう分からん状況になっている。絶対に議論が噛み合わないことを期待して、新潮社は筒井康隆氏と梅田望夫氏の対談本を企画すべきだ。


 少なくとも、本作品以外でも筒井氏が持つ社会観の構成要素のは、その書き手なり読み手のパワーの総量とでもいうべき「文学」という絶対的価値観(Y軸)と、それが時系列的にどう華が咲くのかという「時間」という推移(X軸)とで概ね構成されている。それが、文学の覗き窓から見晴るかす外界としての社会というZ軸も巻き込んだとき、なんつーか非常に綺麗な哲学的光景を作品の中に勝手に構成して後戻りできなくなり、激しく饒舌になって論旨一貫微動だにしないのが凄いのである。風刺してるつもりなんかないのかもしれない。ただ、あまりにも純正な知識主義(アルファケンタウリで言うところの学院長プロホール・ザハロフ)ゆえに、論旨がズレないだけかもしれない。


 要するに言いたいことは二点あって、齢70歳を超えた爺さんがいまなお新しい可能性を読者に与えてることに対する驚愕と、そんな爺さんに叱咤激励されても現状改善ひとつできない業界そのものの不甲斐なさとが交錯しています。